織田信弌

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが織田信弌の項目をおカタく解説しています。

織田 信弌(おだ のぶすけ、? - 天正10年6月2日1582年6月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の一族で家臣。通称は勘七郎(かんしちろう)。織田信長の甥にあたる。

生涯[編集]

父は尾張国津島の豪族である大橋重長。兄に大橋長将がいる[1]

父は織田信秀の娘で信長の姉であるくらの方を妻としており、『系図簒要』や『張州雑志』などでは長将はくらの方の所生と記録があるが、信弌についてはなぜか記録が無く、生母は不詳となっている。しかし、重長の子息が織田家の通字である「信」を名乗ることを許されたり、織田姓を与えられて連枝衆にまで抜擢されていることを考えると、信弌も長将の同母兄弟と考えるのが自然だと思われる[1]

天正9年(1581年)2月、信長が行なった京都御馬揃えにおいて、「御連枝衆」の1人として馬乗して参加している[1]

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において戦死した。法名は雑岳宗英[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 岡田 1999, p. 148

参考文献[編集]