真田三代記
ナビゲーションに移動
検索に移動
真田三代記(さなださんだいき)とは、戦国大名の真田氏に関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
成立も著者も不明。最後の記事が大坂夏の陣であるため、それ以降なのは確実。架空的な内容の数々から恐らく江戸時代後期あたりの後代作品だと思われる。
真田三代とは「幸隆・昌幸・幸村」となっている。つまり、本来の真田家当主である真田信綱(昌幸の兄)や真田信之(幸村の兄)は存在から無視されている。著書では「祖父幸隆よりして三世の偉功を後の人三代を以て目する事実に前代未聞と謂ふべきなり」と書かれている。
内容[編集]
全5編、各編30項、各項2話の形式となっている。真田幸義、真田幸隆、真田昌幸、真田幸村、真田大助の事績を記している。
- 第1項 - 甲斐武田氏の家臣・真田幸義の紹介から始まる。主君・武田信虎の暴君ぶりと対照的に書かれている。武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いと、その下で活躍する真田幸隆の知将ぶり、その子である昌幸の活躍が書かれる。織田信長と武田信玄の戦い、そして当時信長の配下だった木下秀吉の計略を真田が見抜いて対処する話などがある。
- 第2項 - 信玄の死去までが前半。信玄の遺言を昌幸が受けたこと、長篠の戦いで壊滅した甲斐武田家の再建を昌幸が担ったこと、武田征伐で甲斐武田家が滅亡した後、上杉景勝に謀られて危機に陥るが、幸村の知略で辛くも難を逃れるところまで。
- 第3項 - 昌幸と幸村が勝頼の遺児を守って、織田信長や徳川家康の軍勢を翻弄する。信長が死去し、秀吉の時代になるとその秀吉に協力して佐々成政との戦いに参加して活躍する。秀吉没後の関ヶ原の戦いでは上田合戦で活躍したことが書かれているが、西軍の壊滅により上田城を開城。この際、真田信尹の助命嘆願により九度山に流され、昌幸は死去。幸村は息子の大助と共に農耕や真田紐の制作に励んで呆けた様子を見せたところまで。
- 第4項 - 幸村の知略を恐れた家康が刺客を送るが、刺客は逆に幸村に惚れ込んで家臣となる。その頃、家康と豊臣秀頼の関係が悪化し、片桐且元は関係修復を図るが果たせず、高野山に引退する。その際、且元は幸村を木村重成に推挙し、幸村は大坂城に入城する。そして大坂の陣が始まるが、幸村の知略で幕府軍は苦戦し、一時は家康を追い詰めるが家康は強運で命拾いする。家康は幸村を何とかしようと小幡景憲を使って近づけたが、幸村は逆用して家康の目論見を打ち砕くまで。
- 第5項 - 大坂の陣の後半。幸村は家康に対し、秀頼に4か国を与えるように求めるが2か国となり、失敗する。大坂夏の陣で木村重成が戦死すると幸村は最早これまでと悟り、自らの影武者を使用して幕府軍を混乱させる。そして幸村は秀頼や大助を連れて薩摩藩に逃れ、大坂城は幕府軍の攻撃を受けて落城。淀殿と秀頼の影武者が自殺する。家康は大坂城に入って戦後処理を行う。幸村はその後、45歳で病死[注 1]、秀頼も24歳で病死したことになっている。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 幸村は大坂夏の陣の時点で49歳なので、年齢的におかしい。