田原本藩
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田原本藩(たわらもとはん)は、明治時代初期の維新立藩により大和国にわずかな期間だけ存在した藩である。藩庁は田原本陣屋。藩主家は平野氏。現在の奈良県磯城郡田原本町に存在した。
概要[編集]
田原本藩主の平野氏は、鎌倉時代に執権として権力を振るった北条氏の子孫と言われる。祖の平野長泰は豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳七本槍の1人として活躍した。長泰は文禄4年(1595年)に大和国十市郡に7村、5000石の知行を与えられ、豊臣姓も与えられたが、なぜか大名には取り立てられなかった。そのためか慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦後に所領を安堵され、田原本領の平野家が成立する。
長泰の死後、跡を継いだ長勝は十市郡薬王寺村藤井氏の屋敷を仮陣屋としたが、寛永12年(1635年)に田原本陣屋の築造を行う。ところが教行寺との関係から築造計画は遅延し、移ったのは慶安元年(1648年)であった。また、田原本は寺内町として繁栄していたが、それは教行寺の支配下にあったと見られ、平野家の事実上の支配が至ったのは正保4年(1647年)の御堂引き払いの時ではないかと見られる。
以後、平野家は交代寄合旗本として代々続いたが、明治元年(1868年)の維新立藩で5000石を加えられて1万石で大名に昇格し、田原本藩が立藩した。明治4年(1871年)の廃藩置県により、田原本藩は消滅した。
歴代領主[編集]
- 平野家
交代寄合表御礼衆 5000石→1万石