全国産業別労働組合連合
(産別民同から転送)
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全国産業別労働組合連合(ぜんこくさんぎょうべつろうどうくみあいれんごう)は、1949年に結成されたナショナルセンター。略称は新産別(しんさんべつ)。日本労働組合総連合会(連合)の前身の一つ。
概要[編集]
1948年2月13日、産別会議の中から共産党のフラク活動排除、組合の民主主義的運営を目指して、細谷松太、三戸信人、光村甚助、喜田康二、落合英一、大谷徹太郎らが産別民主化同盟(産別民同)を結成した。産別民同は共産党と産別会議から排撃を受けた上、1948年11月の産別会議の大会で産別民同の解散が決議されたため、 1949年12月10日、産別民同は全国産業別労働組合連合(新産別)を結成した。組織人員32万人[1][2]。総同盟や民同派の組合とともに総評結成運動に参加したが、総評結成はGHQや政府の指導が影響したもので「産報化」の危険があるという理由で当初加入せず、1950年11月に遅れて加入した[3]。しかし、1952年7月に脱退し、小規模ながら総評・同盟・中立労連と並ぶ「労働4団体」の1つとなった。
1979年3月9日、中立労連とともに「全体の労働戦線の統一を達成する触媒としての役割」[4]、「将来の組織統合」(同年秋に削除)[5]を目指して全国労働組合総連合(総連合。1989年結成の全労連とは無関係)を結成した。総連合は総評と同盟の橋渡し役となって労働戦線統一推進会を発足させ、1982年の全民労協結成後に活動を停止した[5]。新産別は1988年10月25日の第41回定期全国大会をもって解散した[6]。
役員[編集]
歴代委員長[編集]
- 金山敏(全生保) - 1949年12月(結成大会)〜
- 中島一郎(全機金) - 1951年11月(第3回定期大会)〜
- 西橋富彦(京都地連) - 1952年11月(第4回定期大会)〜
- 佐藤楽造(全機金) - 1953年11月(第5回定期大会)〜
- 岡本義久(全機金) - 1957年10月(第9回定期大会)〜
- 石垣卯一(全機金) - 1960年10月(第12回定期大会)〜1978年10月死去
- 小方鉄蔵(全機金) - 1978年12月(第31回臨時大会)〜
- 河合明博(新化学) - 1984年10月(第37回定期大会)〜1988年10月
歴代書記長[編集]
- 落合英一(全電工) - 1949年12月(結成大会)〜1964年1月
- 大谷徹太郎(本部) - 1964年7月(第16回定期大会)〜1975年8月死去
- 富田弘隆(本部) - 1975年10月(第27回定期大会)〜1988年10月
加盟組合[編集]
1988年時点の加盟組合。組合員数は6万6,293人(1987年6月末日時点、労働組合基本調査)[7]。
- 全国機械金属労働組合(全機金)
- 新産別全化学産業労働組合連合(新化学)
- 新産別運転者労働組合(新運転)
- 全国産業別労働組合連合京滋地方連合会(京滋地連)
出典[編集]
- ↑ 三戸信人「産別民同がめざしたもの(1)三戸信人氏に聞く(PDF)」『大原社会問題研究所雑誌』No.489、1999年8月
- ↑ 三戸信人「証言:日本の社会運動 産別民同がめざしたもの(3・完)三戸信人氏に聞く(PDF)」『大原社会問題研究所雑誌』No.492、1999年11月
- ↑ 労働省編『資料労働運動史 昭和25年』労務行政研究所、1952年、94頁
- ↑ 労働大臣官房総務課編『労働行政要覧 昭和54年度』日本労働協会、1980年、108頁
- ↑ a b 総連合(全国労働組合総連合)[労]1979.3.9 法政大学大原社会問題研究所
- ↑ 新産別解散[労]1988.10.25 法政大学大原社会問題研究所
- ↑ 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑 第59集 1989年版』労働旬報社、1989年、445頁