片山歳生
片山 歳生(かたやま としお、 1911年〈明治44年〉1月5日[1] - 2021年〈令和3年〉5月19日)は、日本のスーパーセンテナリアン。広島県広島市に在住した長寿の男性。存命中は広島県最高齢であった[2]。広島市中区にある高齢者施設で生活していた[1]。
この記事は、2022年に日本語版ウィキペディアで記事が削除依頼により削除された、いわゆるランクが低い人物まで夥しく過剰に作成され、熱心なエスケープ転載を行うIPユーザーによってエンペディアにエスケープ転載された長寿者記事のひとつである。このような民間人の記事を作ることはプライバシー上どうかという意見がウィキペディア日本語版の削除依頼で見られる。
以下の供述はウィキペディア日本語版では出典が無く正確性が無しとされたものであることに留意されたい。
人物[編集]
熊本県上益城郡浜町大字浜町(現在の山都町)で藤平とトミの長男として生まれた。7人兄弟の第三子で、旧制御船中学を卒業。高校進学時に肺結核の疑いがあるなどで、進学を断念。家業の呉服店を継いだ。姉は中学教師、弟は書家で高校の校長を務めた。
戦争中は応召するも肺などの体調がすぐれず、福岡県小倉市の病院で療養中に終戦を迎えた。小倉市は米軍にのちに晩年を過ごした広島に次いで二度目の原子爆弾投下の目標地に選ばれていたが、1945年(昭和20年)8月9日は曇天で、長崎に投下された。
呉服店は、のちに洋装店、ブティックへと業態を変え、合資会社の社長として経理などを担当。町の商工会の会長や老人会長を務めた。その間、畑仕事や山への植林、地域活動に精を出し、次第に健康体となっていった。
妻のタカノは元一等看護婦。明るい性格で仲良く支え合っていた。タカノは専業主婦だったが、歳生は、給料分としてタカノに毎月小遣いを渡し、タカノが毎月、勉強会や神社仏閣へ参拝に行くなどの自由を確保していた。
91歳で、孫のいる広島市へ転居した。住民票を初めて移す経験だった。ひ孫が生まれて以来、娘やひ孫と平和記念公園を散歩するのが日課となった。
新聞をかかさず読み、地元では熊本日日新聞と全国紙を取っていた。広島では、中国新聞を愛読。好奇心が旺盛なため、新聞記事で旅行に出かけた町村の名前を確認したり、漢字などのクイズを楽しんだりしていた。
耳や目が遠くなったが、孫家族とよく旅行に出た。102歳の時、玉造温泉に家族で一泊旅行をして、周囲を驚かせた。
新聞やテレビから情報を入手し、新聞広告で見たネット銀行の利率の良さに、孫に「インターネットというものがあるようだ。ここで口座を開きたい」と依頼し口座を開設。明治生まれだが、90代にしてネット世界の概念を理解し、活用する柔軟性があった。
広島市でデイサービスやショートステイを利用していたが、107歳の時、有料老人ホームに入所した。
2021年5月19日、老衰のため110歳134日で死去。明確な出典は存在しないが、ウィキペディアの一編集者によると死去時国内で男性2位の高齢であったとされる。片山の死により、中村茂が新たな男性の広島県最高齢になったと思われる(中村はその後、男性の国内最高齢者として認定された。)。
脚注[編集]
- ↑ a b “令和元年度広島県の百歳以上高齢者の状況等について”. 広島県. 2020年12月28日確認。
- ↑ “きょう敬老の日 県内100歳以上2392人 女性、男性の6倍超 /広島”. 毎日新聞. (2020年9月21日) 2020年12月28日閲覧。