滝山一揆
滝山一揆 | |
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戦争: 滝山一揆 | |
年月日: 慶長8年(1603年)11月 - 慶長9年(1604年)2月 | |
場所: 日本・土佐国長岡郡本山地方(現在の高知県長岡郡本山町) | |
結果: 山内軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
長宗我部遺臣団・土佐百姓衆 | 土佐藩山内氏 |
指揮官 | |
高石左馬之助ら | 山内一豊 永原一照 |
戦力 | |
不詳 | 不詳 |
損害 | |
不詳 | 不詳 |
滝山一揆(たきやまいっき)とは、江戸時代前期に土佐藩で発生した長宗我部氏旧臣団による一揆である。別名を本山一揆(もとやまいっき)という。
生涯[編集]
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで東軍に属した山内一豊は、戦後に徳川家康から土佐国を与えられて土佐藩主として入国した。そして、藩政の整備に着手し、まずは前代の長宗我部氏の行なった検地を基本にして新たな検地を行なった。ただ慶長6年(1601年)は土佐藩は凶作にも見舞われた[1]。
この検地は慶長10年(1605年)までに完了したとされる。もっとも、これまでの長宗我部検地を改めて山内検地にするということは、当然それまで握っていた有力者の利権や権益が侵されるようにもなった。一豊が長宗我部氏の旧臣を弾圧したりして山内氏の家臣を優遇したのもまずかった。一豊はできるだけ現地に即した検地を採用したが、やはり限界があったのだ[1]。
そして慶長8年(1603年)11月、遂に長宗我部旧臣の高石左馬之助を中心にして反乱が勃発した。この反乱に長宗我部氏の一領具足のほか、様々な藩政改革や凶作による年貢減免などを求めて拒否され疲弊した百姓が加わり、大一揆に発展した。この一揆の原因は、本山を支配していた永原一照が年貢を課した際、国人の高石らに対しての取り分をうまく決めていなかったのが原因でもあった。永原が年貢を取るのに、高石らも年貢を取るのだから百姓にすれば二重に奪取されることになるし、高石らは年貢をどれだけ貰えるかわからないのだから衝突するのは当たり前だった[2]。
一豊は直ちに一照に援軍を送り、一照は一揆の鎮圧に努めたが、長宗我部遺臣の抵抗は頑強で、鎮圧まで3か月もかかることになった[3]。高石は逃亡して行方不明となったが、以後、山内氏は長宗我部氏旧臣への弾圧を強めてゆくことになる。