河瀬左馬助
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河瀬 左馬助(かわせ さまのすけ、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。
略歴[編集]
父は河瀬織部。石田三成に仕えて慶長5年(1600年)7月初旬、東西どちらにつくかで迷う美濃国岐阜城主の織田秀信を三成の使者として赴いて味方につけるのに功績を立てた。次いで福束城に赴いて丸毛兼利を味方につけた。そして、同僚の樫原彦右衛門、大西善右衛門、松田重太夫らと共に2000の兵力を率いて岐阜城に入る。しかし、岐阜城は東軍の福島正則、池田輝政らにより総攻撃を受け、秀信は新加納、米野において東軍を迎撃するが大敗し、秀信と河瀬らは岐阜城に逃げ戻る。逃げ戻った河瀬らは岐阜城の外郭を守備するが、8月22日に500の兵を率いて奮戦するも、瑞竜寺砦を守っていた樫原が戦死したため、退路を断たれることを恐れて大西と共に岐阜城本丸に逃げる[1]。この際に与力の赤尾四郎兵衛にその軟弱ぶりを諫められたが聞き入れずに逃走したという[2]。
しかし、8月23日に秀信が東軍に降伏して岐阜城は開城した[1]。
河瀬のその後の行方は不明である。