赤尾四郎兵衛
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赤尾 四郎兵衛(あかお しろうびょうえ、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。
略歴[編集]
石田三成に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田家宿老の河瀬左馬助に従って美濃国岐阜城に赴いた。8月22日、河瀬が500人の兵を率いて岐阜城の外郭を守っていたが、東軍の攻勢により形勢不利を見て取ると急ぎ間道を使って岐阜城本丸に逃走する。この際、赤尾は逃げ腰の河瀬を諫めるが聞き入れられず、赤尾はわずかな兵と共に踏みとどまって敵の大軍と戦うも包囲された。しかし、それでも激しく抗戦して危うく首を取られそうになるが、下僕の作蔵が主君の一大事を見て駆け寄り、谷底めがけて転げ落ちた。この行為に東軍の兵は作蔵を味方だと思って次なる敵を目指して進んでいき、その間に作蔵は素早く放れ馬を見つけてそれに赤尾を乗せて逃がしたという[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ 安藤「石田三成のすべて」P196