第2回エンペディア大賞」が2月いっぱい開催中です。2024年に作成された記事の中から、お気に入りの記事に投票しましょう!

池田秀氏

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
記事をシェア:
X(旧Twitter)にシェアする
Threadsにシェアする
Facebookにシェアする
はてなブックマークにシェアする
LINEにシェアする
ナビゲーションに移動 検索に移動
池田 秀氏
いけだ ひでうじ
名の由来  
性別 男性
時代 戦国時代から江戸時代前期
生年月日 不詳
生誕地 近江
没年月日 不詳
肩書 豊臣氏家臣
国籍 日本国旗.png日本
武器  
口癖  
名ゼリフ  
子供 貞雄
父:池田秀雄
テンプレートを表示

池田 秀氏(いけだ ひでうじ、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将豊臣氏家臣伊予国内で2万石を領した大名である[1]

略歴[編集]

慶長2年(1597年)に父・秀雄が慶長の役で陣没したため、家督を相続して豊臣秀吉に仕える。秀吉没後は秀頼に仕えた[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して大坂に着陣。伏見城の戦いに参加し、さらに長束正家に従って伊勢侵攻に参加した(『慶長軍記』)。その後、美濃駒野城に入城。9月15日の関ヶ原本戦では石原峠に陣を構える宇喜多秀家の右側に陣を張るが、西軍は敗れて駒野城も東軍に9月16日には落とされ、秀氏は高野山に逃れて隠棲。所領は没収されて改易に処された[1][2]

戦後、同じ伊予の大名であった藤堂高虎の仲介により、藤堂氏に仕えることで伊予に帰還し、所領も与えられた。後に徳川家康からも赦免されて京都への移住を許可され、同地で余生を過ごしたという。ただし、大名に返り咲きは許されなかった[2]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. 以下の位置に戻る: a b c 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P384
  2. 以下の位置に戻る: a b 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P385

参考文献[編集]