池田秀氏
ナビゲーションに移動
検索に移動
池田 秀氏 いけだ ひでうじ | |||||||||||||||||||||||||
|
池田 秀氏(いけだ ひでうじ、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。伊予国内で2万石を領した大名である[1]。
略歴[編集]
慶長2年(1597年)に父・秀雄が慶長の役で陣没したため、家督を相続して豊臣秀吉に仕える。秀吉没後は秀頼に仕えた[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して大坂に着陣。伏見城の戦いに参加し、さらに長束正家に従って伊勢侵攻に参加した(『慶長軍記』)。その後、美濃駒野城に入城。9月15日の関ヶ原本戦では石原峠に陣を構える宇喜多秀家の右側に陣を張るが、西軍は敗れて駒野城も東軍に9月16日には落とされ、秀氏は高野山に逃れて隠棲。所領は没収されて改易に処された[1][2]。
戦後、同じ伊予の大名であった藤堂高虎の仲介により、藤堂氏に仕えることで伊予に帰還し、所領も与えられた。後に徳川家康からも赦免されて京都への移住を許可され、同地で余生を過ごしたという。ただし、大名に返り咲きは許されなかった[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]