木村亨

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木村 亨(きむら とおる、1915年10月20日 - 1998年7月14日[1])は、ジャーナリスト[2][3]、編集者[4]横浜事件元被告人。

略歴[編集]

和歌山県東牟婁郡宇久井村(現・那智勝浦町)生まれ[1][5]。祖母は大逆事件で処刑された大石誠之助の患者の1人で、幼い木村に向かって「貧しい人からお金を取らないようないいお医者さんがどうして殺されなければならなかったんだろうね」と時々口にしていたという[6]。旧制和歌山県立新宮中学校4年生の頃、校長がプールの建設募金を芸者遊びに流用した不正事件が発覚し、『新中タイムス』を出し校長排斥ストを企て退学放校処分となったが、小学校長だった父の取成しにより3ヶ月の停学処分に改められた。1933年中央大学法学部予科に入学。1936年早稲田大学文学部社会学科に転学。同年暮れに『資本論』の読書会を探知されて検挙され、1937年1月に起訴猶予で釈放されるまで2ヶ月間留置された。1939年早稲田大学文学部社会学科卒業、中央公論社に入社、出版部に配属。1942年3月に刊行された細川嘉六監修『支那問題辞典』を担当。1940年4月から9月まで兵役に従事[7]

1942年9月11日に川田寿定子夫妻が治安維持法違反容疑で神奈川県警察部特別高等課に検挙され(米国共産党員事件)、横浜事件の検挙第一号となる。1942年9月14日に細川嘉六が『改造』1942年8~9月号に発表した論文「世界史的動向と日本」により治安維持法違反容疑で警視庁に検挙された。1943年1月21日に川田の関係から世界経済調査会高橋善雄ら7名が検挙された。1943年5月11日に高橋の関係から満鉄調査部平館利雄西沢富夫が検挙され(ソ連事情調査会事件)、押収品の中から細川を中心に平館、西沢、中央公論社の木村、改造社相川博小野康人東洋経済新報社加藤政治が一緒に写った写真が発見された。1942年7月に富山県新川郡泊町(現・朝日町)で開いた出版記念会の写真であったが、特高は「共産党再建準備会」の「泊温泉会議」の写真だと決めつけた。1943年5月26日に写真に写っていた4名の編集者と撮影した満鉄調査部の西尾忠四郎が治安維持法違反容疑で神奈川県警特高に検挙された(泊事件)[7]。最終的に検挙者は90人に及び、約30人が起訴・有罪判決を受けた。特高は被疑者に激しい拷問を行い、4人が獄死した(横浜事件)[8]

木村は留置されている間、激しい拷問を受けて自白を強要された[7]。1945年9月4日に釈放、同月15日に一審で懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けた[4]。1945年11月に拷問を行った特高警察官を共同で告発するため「笹下会」の結成に参加。1947年4月27日に横浜事件の元被告人33人が神奈川県警の元特高警察官28人を「特別公務員暴行・傷害事件」として横浜地裁検事局に告訴した。3人のみが特別公務員暴行傷害罪で起訴され、1952年4月24日に最高裁で実刑判決を受けたが[7]、4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約に伴う大赦で釈放され1日も服役していなかったことを1978年9月になって知る[6]

戦後再建された中央公論社には復帰しなかった。1946年春に日本共産党に入党。『アカハタ』文化部記者を2ヶ月ほどやった後、細川からの話で世界画報社の雑誌『ひろば』の編集長となった。1949年に世界画報社は倒産し、ダイヤモンド社に勤務した。1950年の「五〇年分裂」の際に共産党を離党[7]。『セールスマン論語』(1964年2月)の著者紹介によると、ダイヤモンド社の『セールス』創刊と同時に編集に携わり、同誌編集長を務める[9]。『横浜事件の真相』(1982年12月)の著者紹介によると、1952~1963年にダイヤモンド社嘱託であった[10]。1964~1980年[10]に出版社「ダイヤモンドグループ」を主宰し、国際経済情報誌『ダイヤモンドレター』を発行[7]。1979年時点で笹下会幹事[7]。1982年時点で日本百科社代表[10]。1986年時点でカッパ会代表世話人[11]。1984年に妻・正子が病死[1]。1989年に34歳年下の松坂まきと出会い[2]、1992年に結婚[1]

1986年8月に横浜事件の第1次再審請求を申し立てたが、1991年3月に最高裁から棄却された。1991年8月に森川金寿弁護士、松坂(木村)まきら横浜事件関係者、袴田事件関係者、甲山事件関係者と「日本の代用監獄とえん罪を訴える会」を結成し、ジュネーブ国連人権委員会で代用監獄や拷問の実情を訴えた[12][13]。3年目の1993年に国連NGO世界教会協議会」の発言枠を借り同委員会の本会議でスピーチを行った[6]。1994年7月に第2次再審請求を申し立てたが、2000年7月に最高裁から棄却された。1995年に第7回多田謡子反権力人権賞を受賞[14]。1998年7月、第3次再審請求の1ヶ月前に喘息発作による呼吸不全で急逝、82歳[15]

著書[編集]

  • 『セールスマン論語』有紀書房[有紀新書]、1964年
  • 『セールス一日一言』有紀書房[有紀新書]、1965年
  • 『セールスマン実用小辞典』有紀書房[有紀新書]、1966年
  • 『横浜事件の真相――つくられた「泊会議」』筑摩書房、1982年
  • 『横浜事件の真相――再審裁判へのたたかい』増補2版、笠原書店、1986年
  • 『横浜事件 木村亨全発言』松坂まき編、インパクト出版会、2002年

脚注[編集]

  1. a b c d 横浜事件―木村亨全発言 紀伊國屋書店
  2. a b 横浜事件を夫と共に闘う - 木村まきさんから聞く 東京中央法律事務所、2006年1月
  3. 7/21一7/29「横浜事件と言論の不自由展」を開催 レイバーネット日本、2018年7月16日
  4. a b 横浜事件の真相 再審裁判へのたたかい(抄) 日本ペンクラブ電子文藝館
  5. 『セールスマン論語』『セールスマン実用小辞典』『横浜事件の真相』では和歌山県新宮市生まれ。
  6. a b c ニュースペーパー2017年5月 フォーラム平和・人権・環境、2017年5月1日
  7. a b c d e f g 中村智子『横浜事件の人びと』田畑書店、1979年
  8. “Japan Playwrights Association - ─── (1)「横浜事件」という事件はない” 一般社団法人日本劇作家協会
  9. 木村亨『セールスマン論語』有紀書房、1964年
  10. a b c 木村亨『横浜事件の真相――つくられた「泊会議」』筑摩書房、1982年
  11. 木村亨『横浜事件の真相――再審裁判へのたたかい』笠原書店、1986年
  12. 意見陳述書(木村まき) : 横浜事件被告の名誉回復を実現したい レイバーネット日本、2013年2月21日
  13. 記者の目:袴田事件と代用監獄 毎日新聞2014年6月4日付東京朝刊
  14. 受賞者リスト 多田謡子反権力人権基金
  15. 共謀罪で言論弾圧再び!? 治安維持法時代の凄惨な「横浜事件」を振り返る 週刊女性2017年4月25日号

関連項目[編集]

主要参考文献[編集]