木村亨

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

木村 亨(きむら とおる、1915年10月20日 - 1998年7月14日[1])は、日本のジャーナリスト[2]、編集者[3]横浜事件元被告。

略歴[編集]

和歌山県東牟婁郡宇久井村(現・那智勝浦町)生まれ[1][4]。1939年早稲田大学文学部社会学科卒業、中央公論社に入社[5]。出版部で細川嘉六監修『支那問題辞典』の刊行に従事したことから[3]、編集部に勤務していた1943年5月26日に「共産党再建を謀議した」として治安維持法違反容疑で神奈川県特高警察に検挙され、激しい拷問で自白を強要された(横浜事件)。敗戦後の1945年9月4日に釈放、同月15日に一審で懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受ける[3]。戦後は世界画報社ダイヤモンド社嘱託を経て、1964年~1980年ダイヤモンド・グループ主宰[5]。1984年に妻・正子が病死[1]。1989年に34歳年下の松坂まきと出会い[6]、1992年に結婚[1]

1945年11月に神奈川県特高の暴行事件を共同で告発するため、元被告33人で「笹下会」を結成。1952年4月24日に最高裁で3人の警官の有罪が確定したが[3]、同月28日発効のサンフランシスコ講和条約で特赦になっていたことを1978年9月になって知る[7]。1986年8月に第1次再審請求を申し立てたが、1991年3月に最高裁から棄却された。1991年8月に森川金寿弁護士、松坂(木村)まきら横浜事件関係者、袴田事件関係者、甲山事件関係者と「日本の代用監獄とえん罪を訴える会」を結成し、ジュネーブ国連人権委員会で代用監獄や拷問の実情を訴えた[8][9]。3年目の1993年に国連NGO世界教会協議会」の発言枠を借り同委員会の本会議でスピーチを行った[7]。1994年7月に第2次再審請求を申し立てたが、2000年7月に最高裁から棄却された。1995年、第7回多田謡子反権力人権賞を受賞[10]。1998年7月、第3次再審請求の1ヶ月前に喘息発作による呼吸不全で急逝、82歳[11]

著書[編集]

  • 『セールスマン論語』有紀書房[有紀新書]、1964年
  • 『横浜事件の真相――つくられた「泊会議」』筑摩書房、1982年
  • 『横浜事件の真相――再審裁判へのたたかい』増補2版、笠原書店、1986年
  • 『横浜事件 木村亨全発言』松坂まき編、インパクト出版会、2002年

脚注[編集]

  1. a b c d 『横浜事件 木村亨全発言』インパクト出版会、2002年
  2. 7/21一7/29「横浜事件と言論の不自由展」を開催 レイバーネット日本
  3. a b c d 横浜事件の真相 再審裁判へのたたかい(抄) 日本ペンクラブ電子文藝館
  4. 『横浜事件の真相』(1982年)では同県新宮市生まれ。
  5. a b 『横浜事件の真相――つくられた「泊会議」』筑摩書房、1982年
  6. 横浜事件を夫と共に闘う - 木村まきさんから聞く 東京中央法律事務所(2006年1月)
  7. a b ニュースペーパー2017年5月 フォーラム平和・人権・環境
  8. 意見陳述書(木村まき) : 横浜事件被告の名誉回復を実現したい レイバーネット日本
  9. 記者の目:袴田事件と代用監獄 毎日新聞2014年6月4日付東京朝刊
  10. 受賞者リスト 多田謡子反権力人権基金
  11. 共謀罪で言論弾圧再び!? 治安維持法時代の凄惨な「横浜事件」を振り返る 週刊女性2017年4月25日号

関連項目[編集]

関連文献[編集]

  • 中村智子『横浜事件の人びと』田畑書店、1979年
  • 「季報・唯物論研究」編集部『証言・唯物論研究会事件と天皇制』新泉社、1989年
  • 荻野富士夫『横浜事件と治安維持法』樹花舎、2006年