板井庄作
板井 庄作(いたい しょうさく、1917年1月20日[1] - 2003年3月31日)は、日本の社会運動家。横浜事件元被告。
経歴[編集]
東京府文京区生まれ[1]。大分県出身[2]。東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)を4年で修了、第一高等学校理科を卒業。1939年3月東京大学工学部電気工学科を卒業、同年5月逓信省電気庁技師、1942年11月逓信技師、1943年11月軍需省の設置に伴い軍需技師となる。この間、1940年4月大来佐武郎のすすめで後藤隆之助が主宰する昭和塾に入り、1941年6月高木健次郎らと「昭和塾々友研究会政治班」を結成する[1]。同年10月の昭和塾の解散後、「政治経済研究会」を結成する。1943年9月9日に横浜事件の一環で板井はじめ「政治経済研究会」の8人が治安維持法違反で検挙され、敗戦直後の1945年9月から10月にかけて懲役2年執行猶予3年の有罪判決を言い渡された[3]。
1946年日本共産党に入党[4]。横浜事件に連座した細川嘉六の秘書を務め、1949年の総選挙で35名の共産党代議士が当選すると議員団事務局責任者に就任。1956年夏に党の専従を辞め[5]、1960年4月日本アジア・アフリカ連帯委員会(日本AA連帯)事務局長に就任[1]。1966年10月中国派として党を除名され[6]、同年11月坂本徳松らとアジア・アフリカ人民連帯日本委員会(AA人民連帯)を設立、事務局長に就任。その後、日中友好協会(正統)常任理事、AA人民連帯理事、日本アルバニア協会理事長なども務めた[1]。1971年に日本共産主義者組織の責任者となり[3]、1973年9月に日本労働者党(機関紙『労農戦線』)を結成し、中央委員会書記長に選出された。1981年9月に日本共産党(マルクス・レーニン主義者)と統合した新たな日本労働者党(機関紙『人民新報』)の中央委員会顧問に就任した[1][3]。1998年に建党同盟と統合して結成された労働者社会主義同盟では理論委員会を中心に活動した[3]。
1998年8月横浜事件の最後の元被告として、他の元被告の遺族らと横浜地裁に第3次再審請求を起こした。2003年3月31日肺炎のため都内の病院で死去、86歳[2]。
脚注[編集]
- ↑ a b c d e f 近代日本社会運動史人物大事典編集委員会編『近代日本社会運動史人物大事典 第1巻』日外アソシエーツ、1997年、281-282頁
- ↑ a b 板井庄作氏死去/横浜事件元被告 四国新聞社(2003年4月1日)
- ↑ a b c d 橋本勝史「追悼 板井庄作同志」 労働者社会主義者同盟機関紙『人民新報』第1091号(統合184号)(2003年4月5日)
- ↑ 渡部富哉監修、伊藤律書簡集刊行委員会編『生還者の証言――伊藤律書簡集』五月書房、1999年、86頁
- ↑ 渡部富哉監修、伊藤律書簡集刊行委員会編『生還者の証言――伊藤律書簡集』五月書房、1999年、304頁
- ↑ 『日本共産党国際問題重要論文集 第13巻』日本共産党中央委員会出版局、1983年、202頁/水島毅『宮本顕治の陰謀――密室のなかからの告発』全貌社、1980年、339頁