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(すう、英: number)とは大きく分けて

  • ものの順序を示す語。(序数)
  • 個々の事物が、いくつあるかということを表すもの。(基数)

の二種がある。ただ、どちらとして解釈するかは文脈による。たとえばイギリス英語の二階は日本語の一階であったろしり。 算数や科学・工学の分野では「」「単位」「誤差」「数の表現方式」などの概念と結びついた。「数値(すうち)」として数と数値が混用されており、こちらも文脈による。
「かず」という訓もあるが、「『数』と『量』は、はっきり弁別しなければならない」という立場の人物が戦後の混乱期に数学教育に影響力を発揮したために、「数と量の橋渡し」を果たす役割である「かず」を教育現場から放逐しようという「数え主義」が教育現場において横行していた[1]。これに対して(よりにもよって遠山啓によって)「量と数は不即不離の関係にある」という意見が提出され、社会問題ともなった。
こうした事情があるため、「数」「数字」「数値」「数の表現方式」はいちいち厳密に表現しわけるのは、(職業的なものも含めて)日常生活では「習慣」「風習」「業界の常識」に従っていればめったに問題にはならないのだが、教育関係者には問題とされる。[2]
「本質的には異なる概念云々」と主張する輩もいる(特に小学校の教員など)が、それは当人が理解していないだけであるうこのあたりを真面目に研究している専門家もいるが、それぞれの専門家(数学・計算数学・情報科学・認知学 etc.)の理解の基盤ないし裾野によって解釈にはゆらぎがあり、その説明自体が難解であるともいえるし、説明の前提を理解するだけでも一苦労であるともいえる。

概要[編集]

「順番」(序数)と「個数」(基数)を扱うところから自然数が抽象されたが、当初はまだ「数」と「量」の区別はさほど厳密ではなかった。この区別がそろそろはっきりしてきたのが紀元前二千年くらい昔であったとされる。これは穀物の集約的な栽培によって都市国家が誕生して、測量が行われ、「反当り収量」「人口」「食料の需要量」などの計算が国家的に重要になってきたことによる。よって、民衆のレベルでは「丼勘定」で生活は回っているが、行政レベルでは「数字が読める」(計数感覚が身についている)行政官がいないと経済がうまく回らないために、「数学」(計算術・幾何学)が徐々に民衆に広まることになった。
商業の発展にともない、自然数から整数への拡張が行われ(でないと「借金」が扱えない)、整数の割り算をしたり四則演算をしたり代数方程式の解法を考えたりした結果、自然数・整数有理数無理数実数複素数といった数の概念の拡張が行われた。また、数の表現方法も各種生まれ、有効数字のような工学的な概念とも結びつき、各種の記号・記法も加わって方言に近い表記法も各種使われるようになった。例としては、分数(既約分数、仮分数、帯分数)や連分数、小数(循環小数)、ベクトル(多次元量だが数である。複素数は複素平面上のベクトルと考えてさしつかえない)などがある。

体系[編集]

数の概念は、人類の歴史・民族性によって拡張されてきた。
「西洋キリスト教徒のお陰で21世紀は2001年から始まることになってしまった。インド人がゼロの概念をキリスト教徒に先に伝えて置けばこんな不格好なことにはならなかった事が悔やまれる。」という意見もあるが、残念ながら誤解があり、年度や月や日付や時刻は「序数」を用いるため、おなじ「 0」といっても「零」の意味が違う。『零の発見』という本にもあるが、「数としての零」が発見されたのはインドでも七世紀になってからである。「キリストは三日目に復活した」と福音書にはあるが、処刑されたのが金曜日で復活したのが日曜日なので、現代日本の基数的なみかただと「二日後」である。

  1. その影響は現在でも残っている。
  2. 近年の少子化の影響もあって「市場の奪いあい」という要因はありそうに思うが。