志筑城
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志筑城(しづくじょう)とは、茨城県かすみがうら市中志筑1037にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
旧新治郡千代田町の北部、恋瀬川流域の低地に臨んだ小さな丘陵地の上に存在した城である。
平安時代末期の養和元年(1181年)、源頼朝の叔父・志田義広が反乱した際に鎮圧に功績を挙げた下河辺政義が常陸国南部の地頭に任命され、志筑城を築城したといわれている。政義の子孫は益戸氏を称して居城としたが、南北朝時代の興国2年/暦応4年(1341年)、室町幕府軍を率いる高師冬によって攻められて落城し、当時の城主・益戸国行は下野国の小山氏を頼って落ち延び、これをもって廃城となった。
慶長7年(1602年)、奥州の本堂義親が志筑地方の18村、8100石をもってこの地を支配した際、益戸氏の居城だった志筑城跡を整備してそこに志筑陣屋を構え、以後は本堂氏の支配で明治時代を迎えている。この地方はほとんど経済的には恵まれず、その上に水戸街道筋に当たったために賦役を課されることが多くて領民は苦しみ、百姓一揆が起きることが多く特に安永7年(1778年)には最大の一揆といわれる助六一揆が起き、その際に犠牲となった下佐谷の惣百姓・助六の霊を弔って建てられた助六地蔵が閑居山中に現在も残されている。
現在、城跡は志筑小学校の構内となっており、付近に土塁や空堀跡などが残されており、茨城県の史跡に指定されている。