巌崎健造
巌崎 健造(いわさき けんぞう、天保12年7月16日(1841年9月1日) - 大正2年(1913年)10月2日)は、囲碁棋士。9世安井算知門下、8段。元の名は海老沢 健造。
経歴[編集]
1841年(天保12年)、武蔵国下多摩郡田無村で生まれる。幼名は鍋吉。海老澤九右衛門の次男。健造の家は代々農家であったが、宿屋も営み同郷の名門であったが、14人の兄弟姉妹があり、夭折したものを除いても7名がいた。黒正某に財産を取られたため、新座郡の東福寺に預けられる。東福寺の住職実願和尚は冤罪のため、獄中にあったが、九右衛門により助けられた。和尚は孝経と碁を建造に教えた。建造が勝気に過ぎたため、忍治と改名させた。8歳で碁をマスターし、太田雄蔵の門に入ったが、学資が不足するたびに寺に戻った。9歳で太田雄蔵の紹介で、本因坊秀和による指導碁を打ち、星目で一目の勝ちを収めた。実願和尚がなくなった後は、江戸に出て、芝愛宕下の八百屋に奉公し、ひそかに本因坊家に出入りしていた。このことが松平隠岐守の家中からもれ、1ヵ月で八百屋を解雇された。このとき、13歳[1]であった。
高麗郡下畑村の富豪吉澤文蔵は安井算知の門下で2段の免状を持っており、忍治を引き取り実子同様に養育し、安井に入門させた。健造と名乗る。鬼塚、中村に兄事して修行し、1856年(安政3年)、16歳で初段。17歳のとき2段に進む。処々で得た教授料をとりまとめ、5両にして、秀策に指導を願う。秀策容易に受け取らなかったが、悪例となるとして強いて納めた。1859年(安政6年)、本因坊秀策と2子で10番碁を打ち、7勝3敗とし、先二の手合として4段に進む。貴人これを賞して、美服を与えた。文蔵はこれを見て、5段まで預かるとして、取り上げた。このときほど、情けなかったことはなかったと後年に語る。文久2年(1862年)に村瀬弥吉に先番で勝って5段に昇段。安井家四天王の1人となった。
明治4年(1871年)、村瀬秀甫、黒田俊節、中川亀三郎とともに吉井友実の招きに応じ、西郷隆盛、大久保利通、松方正義の知遇を得る恰好の機会を得た。大久保利通に従い、東京府消防指図役、明治6年(1873年)、神奈川県始審裁判所書記、明治8年(1875年)に尾崎忠治に従い長崎上等裁判所に赴任するなどの官職につき地方を歴任した。明治14年(1881年)、彦根裁判所、明治15年(1982年)に司法属となり、東京で方円社の手合にも参加するようになった。またこの間に絶家となっていた巌崎家を継ぎ、巌崎健造となる。
明治20年(1887年)に6段。明治22年(1889年)、51歳の時に中川亀三郎に請われ、官職を持して方円社の副社長となり、明治27年(1894年)に7段。明治32年(1899年)に中川の後を継いで3代目社長に就任する。明治39年(1906年)、8段昇段。1912年(大正元年)、2代目中川亀三郎(石井千治)を後継社長として引退する。大正2年(1913年)10月2日、73歳で没。
人物[編集]
- 師匠安井算知の息子安井算英(安井家10世)の面倒をみていた巌埼健造は、算英の碁の内容があまりにも未熟なため、思わず手をあげてしまった。算英は母にそのことを伝えると、母は夫の算知に健造の暴力を訴えた。これを聞いて怒った算知は巌埼建造を破門しようと思いましたが、建造にその時の碁を見せられ納得した。妻に一方の言い分だけを聞くなと、逆に叱り建造を許した。そして、再びこのような碁を打つことがあれば容赦なく叱ってくれといったとされる[1]。
- 瀬越憲作の入団時には、試験碁の相手に鈴木為次郎を選んだ。
- 墓は西東京市田無町にある真言宗智山派の寺院・総持寺である。
棋風[編集]
- 明治27年(1894年)の中川亀三郎執筆の免状文には「手段精妙にして名誉著聞す。因って同社協議をへて七段の品位を推与す。更新を奨属してその道を維持することを自ら負担あらんことを希望す」と書かれている[1]。
著書[編集]
- 巌崎健造『定石活論』,方円社,1916年