小弓御所様御討死軍物語
小弓御所様御討死軍物語(おゆみごしょさまおんうちじにいくさものがたり)とは、戦国時代の小弓御所に関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は不明。題名と内容における小弓御所に対する敬称の使用などから、小弓御所側の人間が書いたものかと思われるが、記事に関しては後北条氏に関する記述も結構多いし、敵の総大将である北条氏綱に関する敬意などから後北条氏側の人間が書いた可能性も否定できない。物語の最後で氏綱の厚い信仰心を讃え、その子孫の繁栄を確信するなどと著者が書いている点から、どちらかというと後北条氏の人間で、仏教に縁ある人間が書いた可能性がある。
成立年代については巻末に「天文戊戌十月二十五日」とある。つまり、天文7年(1538年)10月25日ということになる。小弓公方・足利義明の戦死が10月7日なので、それからわずか19日後に書かれたことになる。ただ、文書や文飾などから後代の作品の可能性があり、別説として「天正三年乙亥八月十一日」とあることから、義明戦死から37年後の天正3年(1575年)8月11日の可能性もある。
別称は『御弓御所様御討死物語』、『鴻台御没落の事』(こうのだいおんぼつらくのこと)。
内容[編集]
小弓公方の足利義明が戦死した天文7年(1538年)10月の第1次国府台合戦について記した軍記物である。全1巻。
足利義明が大軍を率いて武蔵国に侵攻し、それに対して北条氏綱は赦免を願い出るが義明は受け入れず、やむを得ず戦いとなったとしている。ただし、古河公方の足利晴氏から義明追討の御内書を出されていたとされているのに、義明に赦免を願い出たとされるなど、氏綱が「やむを得ず」義明と戦うことになったことが強調されている。
兵力は足利軍2000騎余、北条軍3000騎余。この軍記は『国府台戦記』ほど具体的に書かれていない。つまり、義明戦死についてはまったく描かれておらず、「御痛はしともなかなか申すに尽きせざりしなり」とだけ記しているだけで、氏綱は自軍の合言葉として「敵かと問はば討つと答えよ」であったことだけが記されている。
国府台合戦の後は後日談として、小弓城に残っていた義明の御台、若君についての消息について述べられている。ただ、この後日談については『国府台戦記』と同じことが記されている。その後の氏綱の対応、義明の生前の家族に対する指示、戦後処理、そして氏綱の勝利が後北条家の繁栄、その信仰心によるものと讃えて終了している。