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富永章敬

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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Baseball Pitcher.jpg 富永章敬 Baseball Batter.jpg
基本情報
国籍 日本国旗.png日本
出身地 愛知県名古屋市中川区
生年月日 1972年4月17日(52歳)
身長
体重
182 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1990年 ドラフト外
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

富永 章敬 (とみなが あきのり、1972年4月17日 - )は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手。右投右打。後述のとあるエピソードが発掘されたことで、プロ入り後33年の時を経て話題を集めた。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

県立蟹江高校(現・県立海翔高校)時代は140キロの速球を武器に春季県大会でベスト8まで進むが、惜しくも敗れた。
1990年(平成2年)、ドラフト外中日ドラゴンズに入団。 「下半身を鍛えたい。早く1軍で投げることが夢です」と意気込みを語った、契約金1500万円、年棒360万円(いずれも推定)背番号は57

中日時代[編集]

1991年は一軍・二軍共に登板なし。二軍で体力作りに励んだ。

1992年は二軍で3試合に登板。0勝0敗、防御率6.43を記録した。この年は7回を投げて奪三振0と打たせて取る投球だった。また、怪我による離脱も経験。

1993年は二軍で4試合に登板。0勝0敗、防御率5.40を記録した。この年も右肘の怪我に泣かされ、シーズンのほとんどを三軍で過ごしたため、登板数が少なかった。

1994年年はシーズン途中に野手へ転向。一軍・二軍共に登板はなく、二軍で野手として5試合に出場。打率.000、0本、0打点を記録した。

同年限りで中日を退団。引退後は家業の手伝いをすることになった。一軍での試合出場は投手・野手共に無く、ウィキペディアで記事ができることも無く[1]、ほとんどの野球ファンに忘れ去られていた……のだが。

引退後、一躍時の人に[編集]

2023年(令和5年)12月、大谷翔平ロサンゼルス・ドジャースに移籍。ドジャースのユニフォームと中日ドラゴンズのユニホームのデザインが似ていることが話題となり、プロ野球ゲームでは大谷を勝手に中日に入団させたり、さらに酷似したデザインのオールドユニフォームを着せたりする者が現れるなどした。そんな中、なんと1990年(平成2年)12月中日の入団発表会見で、なぜか富永だけドジャースのユニホームを着ていたことが名古屋テレビ放送(メ~テレ)の取材で33年越しに判明した。

なぜ1人だけドジャースのユニホームを着ていたのか、詳しい理由は判明せず。中日球団と提携していたドジャースのユニホームが同じような場所で保管されており、デザインが似ていたため気づかなかったとする説が浮上した。中日新聞に残っている当時の入団会見写真では、大部分が陰に隠れているが、富永投手の胸文字の右端がD「r」ではなくD「o」となっているのが確認できる(リンク先に画像があります)。

ドラフト1位として会見に出席していた小島弘務も「そんなの全然気づいていない、今の今まで…」とメ~テレの取材で初めて知った。当時の会見で富永の隣に立ち、現在は代表補佐も務める寺西秀人も、メ~テレの取材で初めて気づいて驚いたという。

球団関係者によると「昔は、背番号が入っていない、入団会見用のユニホームを別の場所で保管していた」と発言しており。そのうえで、取り違えが起きた理由については「ドジャースのユニホームも同じような場所で保管していて、デザインが非常に似ているので、いつからかそこに混ざってしまった可能性があり、それを気づかずそのまま新人選手に渡してしまったのではないか」と話した。

選手としての特徴[編集]

140キロの速球が武器の本格派。

投手だが打撃も良く、高校時代は場外ホームランを放ったこともあった。

人物[編集]

巨人投手のビル・ガリクソンに顔が似ていることから、あだ名が「ガリー」だった。

詳細情報[編集]

年度別投球・打撃成績[編集]

  • 一軍公式戦出場なし

背番号[編集]

  • 57 (1991年 - 1994年)

脚注[編集]

  1. 2023年12月時点。話題になってから2か月後の翌2024年2月に記事が作成された(参照)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]