太田城 (常陸国)
太田城(おおたじょう)とは、茨城県常陸太田市中城町151にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
常陸太田駅の北およそ1.5キロの地点に存在した城である。
鎌倉時代から常陸国に大きな力を振るった源氏の名門・佐竹氏の居城に当たるため、佐竹城(さたけじょう)あるいは舞鶴城(まいつるじょう)とも言われる。上野国の太田金山城や下野国の唐沢山城と共に関東三大山城の1つに数えられた山城であった。
築城の時期は明らかでは無いが、佐竹氏は源義光の孫・佐竹昌義を祖として平安時代末期に佐竹郷(現在の常陸太田市)を支配して馬坂城(常陸太田市の天神林)を本拠としていた。長承2年(1133年)、太田を居館としていた藤原秀郷の末裔にあたる藤原通盛を追放して太田を奪ったといわれ、恐らくこの際に太田城も規模が拡大したと見られている。昌義の子・佐竹隆義は太田城の整備に尽力した。
以後、佐竹氏はこの城を居城として常陸に大きな勢力を振るった。第9代の佐竹貞義の時代には念願の守護職を手に入れた。第20代の佐竹義宣の時代である天正19年(1591年)には豊臣秀吉の後ろ盾を得て水戸に進出し、豊臣政権下で54万石を領する大大名に成長した。しかし義宣は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで判断を誤り、慶長7年(1602年)に徳川家康によって出羽国秋田藩に移されて、太田城もこの時に廃城となった。
江戸時代に太田の地は水戸徳川家の所領となり、太田御殿が置かれた。
現在、城跡の大部分は常陸太田市の市街地に取り込まれており、市で建立された「舞鶴城址」の標柱が太田小学校の内部に残されているのみとなっている。
また旧城跡内の西寄り、今の宮本町にある若宮八幡宮は佐竹氏の第13代・佐竹義憲が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請して創建したものといわれており、その境内には樹齢数百年のオオケヤキがあり、これは茨城県の天然記念物に指定されている。
アクセス[編集]
- 常陸太田駅から徒歩で約25分。