呂乂
呂 乂(りょ がい、? - 251年)は、中国の三国時代の蜀の政治家。字は季陽(きよう)[1][2]。父は呂常。子に呂辰・呂雅。
生涯[編集]
荊州南陽郡の出身[1]。父の呂常が劉焉に従って益州に赴いた際に道が遮断されて荊州に戻ることが不可能になったので、呂乂は幼児にして孤児になる[1]。読書や音楽を好み、劉備が益州を平定すると塩府校尉の王連から招聘されて劉幹や杜祺と共に典曹都尉に任命された[1]。その後、新都・綿竹の県令を歴任し、この際に慈悲深い政策を実施して民衆の支持を得て、それが中央にも聞こえて巴西郡太守に昇進する[1]。諸葛亮による北伐が開始されると、5000人の兵力を届けたがその際に兵士に対してよく諭して取り締まったので呂乂の兵士から逃亡する者はいなかった[1]。
後に漢中郡太守に転任して督農校尉を兼任し、北伐の際に兵糧を切らさないように送ることに貢献した[1]。234年に諸葛亮が死去すると広漢郡・蜀郡の太守に転任する[1]。蜀郡では逃亡兵が多く出ていて、戸籍を偽って滞在する者も多くいたため、呂乂は厳格に取り締まった[1]。その結果、蜀郡から出ていく民衆は1万人を数えたとまで言われている[1]。その後、中央に戻ることを許されて尚書に任命され、董允の後任として尚書令に昇進する[1]。倹約に努め、謙虚で口数も少なく、政務も事務処理も適格にこなしたものの、法律を厳格に適用して好んで法律に詳しい俗吏を任用したりしたため、かつて県令の時代に厚く民衆に支持を得ていた時より名声を得ることは無かった[1]。251年に死去[1]。
『三国志演義』には登場しない[1]。ただ、『三国志演義』には呂義という呂乂に似た経歴の人物がおり、劉璋の部下として初登場する[1]。第91回で諸葛亮の第1次北伐で定遠将軍・領寒中太守として李恢の後軍領兵使の副将を務めているが、戦場での活躍は描かれていない[1]。