王連
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王 連(おう れん、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の武将・政治家。字は文儀(ぶんぎ)[1]。子に王山。
生涯[編集]
荊州南陽郡の出身[1]。はじめ劉璋に仕えて梓潼県令となる。213年の劉備の入蜀では城門を固く閉ざして降伏しなかったので、劉備からその忠義を評価されて力攻めは行なわれず、劉備が益州を平定すると司塩校尉に昇進し、塩や鉄の専売権を国有化することで蜀の国力を豊かにすることに貢献した[1]。223年に屯騎校尉となり、さらに丞相長史を兼任する[1]。諸葛亮が自ら南征しようとした際にはそれをやめるようにたびたび諌めた。そのため諸葛亮は王連の死去を待って自ら南征したという[1]。没年は223年から225年の間と推測される。
『三国志演義』では諌議大夫として諸葛亮自らの南征を諌めるところだけ登場する。