名張毒ぶどう酒事件
名張毒ぶどう酒事件(なばりどくぶどうしゅじけん)とは、1961年3月28日に三重県名張市で女性5人が毒入りのぶどう酒を飲んで死亡した事件。この事件でOが殺人容疑で逮捕され、1審は無罪だったが2審で逆転死刑判決が下り、最高裁で上告棄却となり死刑が確定する。以後、Oは無実を訴え続け、再審請求審は一旦再審開始決定が出た後に取り消される異例の経過をたどり、第9次請求中の最中の2015年10月4日に89歳の高齢で肺炎の為に亡くなった。
経過[編集]
- 1961年3月28日、三重県名張市の公民館でぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡、12人が中毒症状で入院[1]。
- 1961年4月3日、三重県警が殺人容疑等でOを逮捕。
- 1964年12月、津地裁が無罪判決。
- 1969年9月、名古屋高裁が逆転死刑判決。
- 1972年6月、最高裁が上告棄却。Oの死刑確定。
- 1974年1月、第1次再審請求棄却。以後、第6次再審請求まで全て棄却。
- 2005年4月、第7次再審請求で高裁が再審開始を決定。その後、検察側の異議を認め取り消し。
- 2010年4月、最高裁が異議決定を取り消し。差し戻し。
- 2012年5月、高裁が再び再審開始の決定を取り消し。
- 2012年5月27日、Oが発熱や肺炎症状のため名古屋市の病院に入院。
- 2012年6月11日、Oが八王子医療刑務所に移送される。
- 2013年5月2日、Oが危篤に陥るが、人工呼吸器で持ち直す。
- 2013年6月、Oが一時危篤になる。
- 2015年5月、弁護団が高裁に9度目の再審請求をしたと公表。
- 2015年8月、Oが一時危篤となる。
- 2015年10月4日、Oが肺炎のため八王子医療刑務所で死去。享年89[1]。
状況[編集]
1961年3月28日、三重県名張市の地区の懇親会が公民館で開かれており、ここでぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡、12人が入院した。ぶどう酒からは農薬が検出され、Oが4月3日に殺人容疑等で逮捕された。動機に関しては「妻と愛人との三角関係を解消するため」と供述したとされ、Oは「ぶどう酒にニッカリンTを混入した」と一旦は犯行を自白したが、起訴直前に否認に転じ、公判でも無罪を主張した。1964年の第1審は無罪判決で、1969年の2審は逆転死刑、1972年の最高裁で死刑が確定する。再審請求は1973年から開始され、第6次請求までは全て棄却[1]。
2005年の第7次再審請求で「毒物が(Oが自白した)ニッカリンTではなかった疑いがある」として再審開始を決定。ところが2006年、名古屋高裁の別の裁判長が検察側の異議を認めて取り消した。これに対して最高裁は科学鑑定のやり直しなどを求め、審理を高裁に差し戻した。弁護団は新たに製造されたニッカリンTの再鑑定結果を基に自白調書の矛盾点を訴えたが、高裁は2012年に再審開始決定を再び取り消して請求を棄却した[1]。
既に2012年の時点で80代後半という高齢だったOは名古屋拘置所から八王子医療刑務所に移され、危篤状態になったことから人工呼吸器をつけるなど治療を受けていた。2015年8月以降は高熱を出すことが多くなり体調が悪化していたとされ、10月4日午後0時19分に肺炎で死去した[1]。
Oの死去により、その妹が再審請求を引き継ぐ考えを示した。
問題点[編集]
今回の事態は審理長期化を防ぐ工夫や証拠開示のルール整備など再審制度のあり方について問題提起した形となっている[1]。
第9次に及ぶ再審請求のうち、第4次までは実を言うとO本人により請求されていた。このため新証拠の収集もままならずいずれも短期間で棄却されていた。第5次からは日本弁護士連合会が支援に乗り出し弁護団が結成され、膨大な証拠を提出した。このため検察側も反論を強め、第5次から第7次の請求審の審理はそれぞれ5年から20年もかかった。長期化の背景には再審事件特有の事情、つまり裁判所に再審事件を専門に扱う部門がなく、裁判官は通常の裁判と並行して再審請求の審理に当たらざるを得ないため、提出される新証拠が膨大な上に最新の科学鑑定に基づくため、高度な専門知識が必要なことも長期化の一因となった。また弁護団が全証拠の開示を求めても検察側に応じる義務は無く、検察側に開示を命じるかどうかも裁判所の裁量に任されている。再審をめぐる証拠開示については司法制度改革でも対象外となるなど見送りは先送りされているため、捜査機関に全ての手持ち証拠を出させるようなルール作りが必要と指摘されている[1]。
監獄人権センター代表の弁護士である海渡雄一によると「2005年の再審開始の兆しがありながら、検察側の異議申し立てがあったため混迷してしまった。検察側の不服申し立てが許されている点に制度の問題を感じる。冤罪被害者を救済する再審制度であるべきで、名張事件に学び、証拠開示の運用も含めた抜本的な改革が必要だ」と述べている。 Oによると「自白は作られた」「やっていない」と繰り返していた。また2012年秋の医療刑務所における発言では「(事件現場の公民館で)1人になったことは無い」と力説していた。 YouTube 動画リンク
死刑求刑事件における無罪判決の事例[編集]
- 本事件は最高裁判所の記録に残る1958年以降では中華青年会館殺人事件、熊本県玉名市家族殺傷事件、宮崎県三ヶ所村雑貨商一家強盗殺傷事件に続く死刑求刑での無罪判決であり、その後死刑求刑事件で一審で無罪判決は出ていなかったが、2005年に北方事件において約40年ぶりとなる一審での無罪判決が出た。その後、一審判決順に高岡暴力団組長夫婦射殺事件、広島保険金目的放火殺人事件、土浦一家3人殺害事件、鹿児島高齢夫婦殺害事件、平野母子殺害事件と7件で死刑求刑事件で一審段階で無罪判決が出ている。
- 前述の事件のうち中華青年会館事件と北方事件、高岡暴力団組長夫婦射殺事件は検察が控訴するも二審でも無罪判決が出てそのまま確定。熊本県玉名市家族殺傷事件は二審で破棄差し戻しとなり差し戻し一審で懲役12年判決、最高裁で確定。宮崎県三ヶ所村雑貨商一家強盗殺傷事件は二審で無期懲役判決、最高裁で確定。広島保険金目的放火殺人事件は二審も無罪判決が出て最高裁で確定。土浦一家3人殺害事件は二審で逆転有罪無期懲役判決、最高裁で確定。鹿児島高齢夫婦殺害事件は検察が控訴したが控訴中に被告が死亡したため公訴棄却となった。平野母子殺害事件は一審で無期懲役、二審で死刑判決が出たが最高裁が差し戻し、差し戻し一審で無罪判決。検察側控訴中。
- 過去の死刑求刑事件では土田・日石・ピース缶爆弾事件、豊橋事件が一審で殺人に関して無罪となり、事実上無罪判決が出ているが、別件の軽微な事件で有罪となっているため、記録上は有罪判決となっている。土田・日石・ピース缶爆弾事件は一審、二審と続けて無罪判決が出て検察が上告を断念して、豊橋事件は一審無罪判決で検察が控訴断念をしてそれぞれ無罪判決が確定している。
事件を調査した評論家の青地晨は、自著の中で、「現場地域の保守性・閉鎖性」を指摘している。
遺族[編集]
Oは三重県名張市の葛尾地区の出身で、1940年に高等小学校を卒業し、近畿日本鉄道に入社した。妻とは職場で知り合い、反対する一部親族を懸命に説得して結婚し、この間に1男1女に恵まれた。ところが事件で妻は死去。残された子供達は「人殺しの一家」として地区を離れてばらばらに暮らすことになり、Oの支援者への手紙には子供達に散々な生活を強いられた苦悩と救済、実況見分における子供らの「お父さん」と泣き叫ぶ声が未だに耳に残っていると打ち明けていた。長男はOに先立ち、2010年に死去している。