匡亭の戦い

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匡亭の戦い(きょうていのたたかい)とは、後漢末期の192年に発生した曹操軍と袁術軍の戦いである。この戦いには曹操が勝利して曹操が飛躍する契機となった。

概要[編集]

192年に中央で強大な権勢を誇っていた董卓呂布王允らによって暗殺されると、中国全土は群雄割拠の状態となり、各地の諸侯が次の覇者をめぐって争うようになる。これより少し前、名門である袁氏内部でも主導権をめぐり、袁紹・袁術との間で対立が生じており、それによりこの両者が争うようになっていた。そして各地の諸侯はそれぞれ袁紹派・袁術派に分裂して争うようになった。

この中で董卓の死後から急速に勢力を拡大していたのが曹操である。曹操は青州黄巾賊を降して青州兵を手に入れており、それにより軍事力を強大化させていた。袁紹派の曹操の勢力拡大は袁術にとって好ましくないものであり、袁術は幽州の公孫瓚、高唐の劉備、平原の単経、発于の陶謙らと協力して袁紹、曹操らを包囲圧迫しようとしたが、逆に袁紹・曹操らによってこの包囲は破られる。しかも袁術の後方を劉表が撹乱したため、袁術の劣勢は明らかとなった。

袁術は劣勢を挽回するため、黒山賊の張燕、南匈奴於夫羅と連携して曹操の本拠である陳留郡に侵攻し、自らは封丘に駐屯し、部下の劉詳を匡亭に派遣した。対する曹操はまず劉詳を攻撃し、それを知って救援に駆けつけた袁術まで打ち破った。この際、大活躍したのが曹操配下の名将・曹仁であり、曹仁が斬り殺したり生け捕りにした袁術軍の兵士はかなりの数にのぼったという(『曹仁伝』)。袁術は封丘まで敗走して守備を固めたが、曹操の追撃により襄邑・大寿・寧陵といずれも敗走して、最終的に九江郡まで敗走することになる。

この敗戦により、袁術派の劣勢は明らかになった。逆に袁紹派の優勢となり、以後、袁紹や曹操は大いに勢力を拡大してゆくことになる。

袁術は劣勢を挽回するため、その矛先を江南に向けるようになり、まずは揚州刺史陳温を殺害して揚州を事実上支配下に置いた。そして江南に一大勢力地を築いて挽回を図るが、やがて孫策の自立などで結局、勢力は衰退して曹操にすら対抗できなくなるようになる。

なお、『三国志演義』には記されていない合戦である。