北の藤
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北の藤(きたのふじ、? - 天文23年7月24日(1554年8月22日))は、戦国時代の女性。北条氏綱の継室。
生涯[編集]
父は関白・近衛尚通。弟に近衛稙家がいる[1]。『為和集』には天文2年(1533年)3月11日条に「氏綱女中は近衛殿、関白殿(稙家)御姉にてまします」とある。最初の正室である養珠院殿が大永7年(1527年)7月に死去しているため、その継室として享禄4年(1531年)7月から天文元年(1532年)3月までの間に迎えられたと見られている。ただし、氏綱には既に養珠院殿との間に嫡男の氏康ら多くの子女がいた上、稙家は享禄4年の時点で31歳なので、その姉に当たるならそれ以上の年齢だったことになる[2]。
現代と違って、当時の女性の婚姻年齢、あるいは出産年齢は既に過ぎているに等しいため、この婚姻は氏綱が京都朝廷とのパイプを形成し、摂関家と婚姻関係を結ぶことで後北条家の家格を上昇させようとして行なったものと見られている[2]。
史料上では天文19年(1550年)3月までの生存が確認できるので、氏綱より長生きしたことになる。氏綱の死後、後北条家の家督は前妻の子である氏康が継承していたが、北の藤は継母としてなおも小田原に留め置かれており、御大方様と称された[3]。
没年に関しては異説もあるのだが、天文23年(1554年)7月24日に死去したと見られている。法名は勝光院殿妙安尊尼[3]。