傅嘏
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傅 嘏(ふ か、209年 - 255年)は、中国の三国時代の魏の政治家。字は蘭石(らんせき)[1]。祖父は傅睿。父は傅充。伯父は傅巽。子は傅祗。孫は傅宣・傅暢。
生涯[編集]
涼州北地郡泥陽県の出身[1]。司空の陳羣に招聘されて曹芳の時代に黄門侍郎となるが、何晏と対立して少々の不祥事を理由に免職される[1]。次に司馬懿に招聘されて従事中郎将に任命され、249年に曹爽が正始の変で処刑されてからは河南尹、尚書と昇進した[1]。252年に孫権が崩御すると司馬師は呉に軍を南下させようとしたが傅嘏は反対し、結局諸葛誕や胡遵らの魏軍は東興の戦いで丁奉の前に大敗した[1]。255年に毌丘倹・文欽の乱が起こると司馬師に献策を行なって勝利に貢献し、陽郷侯に封じられたが同年に死去した[1]。享年47。
『三国志演義』でもほぼ史実どおりである。