三岐鉄道北勢線

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

三岐鉄道北勢線(さんぎてつどうほくせいせん)は、三重県桑名市にある西桑名駅からいなべ市になる阿下喜駅までを結ぶ三岐鉄道鉄道路線のこと。

路線データ[編集]

概要[編集]

21世紀の日本では数少なくなったナローゲージの軽便鉄道路線の1つ。1914年に大山田(後の西桑名)から楚原までが開業したことが始まりだが、累積赤字で近鉄が2003年に手放して以降は三岐鉄道が地元からの支援を条件に運営を引き継いでいる。当初の支援は10年であり、その後3年ずつ更新され続けている。

歴史[編集]

1909年に北勢鉄道が設立されたことがきっかけに、1914年に大山田 - 楚原までが開業。その後桑名町(後の桑名石橋)から大山田までが開業。楚原側も阿下喜東(後の六石)まで延伸された。

一方、三岐鉄道の前身となる員弁鉄道は北勢線自体をセメント輸送に活用できないかという調査を行うも頓挫し、別途員弁川の反対側に三岐線を敷設した。阿下喜東より向こう側は険しい山により開業が遅れ、1931年に阿下喜までようやく開業し全通。同時に電化もなされた。当初は立地条件の良さから旅客輸送の成績は三岐線に比べて良好であった。

1940年代に入ると戦時統制により三重交通に合併されてしまう。元々は合併反対の立場をとっていたが、合併後は成績の良さから三重交通の第一種株式とされ、かなり優遇された。

戦後は引き続き三重交通の傘下にあったが、しばらくの間は三重交通と近鉄でバスと鉄道が入り乱れた状態となっていた。これを解決すべく、鉄道は近鉄の、バスは三重交通の持ち分とすることになり、1964年に三重電気鉄道に北勢線は譲渡され、65年には近鉄に吸収合併された。

以降はけん引運転の取りやめやATSの設置、ワンマン化など、他のローカル私鉄レベルの設備を持つようになった。

しかし、沿線人口密集地で東名阪自動車道経由の三交の名古屋直結バスが開業すると路線の存在が脅かされ、更に2000年に入ると、近鉄は経営難を理由に北勢線を廃止することにし、2002年に廃止届を国交省に提出した。それでも地元からのバス転換反対の声が上がったため経営移管が模索され、三セク転換ではなく、三岐鉄道が運営を引き継ぐことになった。

これに関して三岐鉄道はそのまま延命ではなく、リニューアルをして存続させる方針で、地元からの支援を受けるとともに、用地を地元に明け渡し、軌道や車両を管理することにした。そして2003年4月1日をもって近鉄から三岐鉄道に譲渡された。その後、支援は2013年から3年毎に更改されて現在に至る。

なお、車両側の高速化改造は済んでいるが、設備投資が追いつかず、最高速度は依然として45km/hのままである。

運行形態[編集]

日中は西桑名 - 楚原間、および西桑名 - 阿下喜間に毎時1本ずつ設定される。他に西桑名 - 東員間、および西桑名 - 大泉間に1日数本程度区間列車が設定されている。列車はすべてワンマン運転が行われる。

駅一覧[編集]

括弧内は西桑名駅からの距離(単位はkm)を表す。特記事項がない限り1面1線の無人駅であるが、すべての無人駅に自動券売機が設置される。

廃駅[編集]

  • 桑名京橋駅 (0.7) - 桑名駅東側の旧桑名宿付近に所在した駅

この節は執筆の途中です この節はまだ執筆途中です。加筆、訂正して下さる協力者を募集中!

車両[編集]

すべての編成に270系が連結される。この他、サハ130形サハ140形200系などで編成を組み、合計3連4本、4連3本の計24両が在籍する。
かつては貨物列車も走っていたが北勢線移管前に全滅。貨車も全廃されている。

なお、沿線の支援会は、移管直後に下津井電鉄でたった3年弱でお役御免となって静態保存されているメリーベル号の譲受の上での使用や、他の軽便鉄道で使用され静態保存された蒸気機関車を復活させ、低速を逆手に独自性で誘客する構想を立てていたが、メリーベル号で保安機器や走行装置の改造が必要なことや、三岐鉄道自体が観光路線化に消極的であったことからボツになった。

関連項目[編集]