万彧
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万 彧(ばん いく、? - 272年)は、中国の三国時代の呉の政治家。
生涯[編集]
最初は呉郡の鳥程県令であったが、この時に孫皓と仲良くなった[1]。264年に孫休が崩御した際、張布や濮陽興によって孫休の遺児が擁立される事になったが、これに万彧は猛反対して孫皓の擁立を実現した[1]。そして皇帝の側近にのし上がると張布・濮陽興・王蕃らを讒言を繰り返して死に追いやり、266年に右丞相となって権力を掌中に収める[1]。しかし孫皓の非道な振る舞いに万彧すらも見限るようになり、それを知った孫皓から恨まれて毒殺を図られる[1]。幸いに毒殺を命じられた下手人が毒の量を減らしていたので未遂に終わったが、これを知った万彧は憂憤の内に自殺した[1]。
『三国志演義』では最終回で登場し、孫皓に諫言して殺されている。