ラテラノ条約

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
画像募集中.png

ラテラノ条約( - じょうやく)とは、1929年イタリア王国首相ベニート・ムッソリーニローマ教皇ピウス11世との間で結ばれた条約。この条約により、60年間続いていたイタリアとローマ教皇との対立は終焉し、イタリアはカトリック教会教皇庁一帯を国家としてその主権を認め、バチカン市国の建国が成立した[1]

概要[編集]

1929年2月11日に結ばれたこの条約は、イタリアを統一してイタリア王国を樹立したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世による1870年ローマ占領から始まるイタリア王国とローマ教皇との間の緊張関係(ローマ問題)に終止符が打たれることになった[1]。そもそもの発端はローマ占領でピウス9世をはじめとするローマの歴代教皇らが「バチカンの囚人」を宣言してバチカンに立て籠もったことから始まる[1]。このためイタリア王国の国際社会における立場は著しく不利になっており、時の首相であるムッソリーニは教皇との和解を通してイタリアの国際社会における立場を有利にし、さらに自らのファシズム政権にカトリック教徒の支持を得ようと目論んだのである[1]

ローマ教皇・ピウス11世は実際の交渉を枢機卿のピエトロ・ガスパリに当たらせ、1929年に結ばれたラテラノ条約は教皇側に極めて有利な内容になった[1]。この条約は「協定書」「政教条約」(コンコルダート)、「財政協定」の3部からなる[2]

協定書は聖座の主権と独立を認めるとともに、建国されるバチカン市国における教皇の完全な支配権を認めるものであり、これにより教皇は世界最小の独立国家内での絶対君主に位置付けられた。ピウス11世は「鉄道ストなどに煩わされるのは御免だ」として意図的にバチカン市国を小国とする方向を選択したとされ、バチカンの敷地以外に治外法権を持つ飛び地としてカステル・ガンドルフォラテラノ大聖堂サンタマリア・マッジョーレ大聖堂サンパオロ・フォリ・レ・ムーラ大聖堂などが認められた。イタリア政府と聖座の外交関係が正式に結ばれ、第2次世界大戦中も含めて聖座と諸外国との交流が保証された。その代わり、聖座はイタリア政府を認め、ローマをその首都と認めることになった[2]

政教条約では、イタリアはカトリック国とされ、学校におけるカトリック教育が義務付けられ、カトリック団体であるカトリック・アクションには活動の自由が認められ、教皇には精神的指導者としての権威が保証された。ただし司教には国家への忠誠の誓いを義務付けられ、教区はイタリア政府の政治区割りに従って変更された[2]

財政協定では、聖座は7億5000万リラの現金と5パーセントの利息つきの国債10億リラを受け取ることになり、聖職者らの給料もイタリア政府によって支払うことが取り決められた[2]

第2次世界大戦後、イタリア王国が廃止されて共和国に移行した際も、1947年にイタリア憲法においてラテラノ条約は保持され、1985年6月3日にイタリア政府とローマ教皇・ヨハネ・パウロ2世との間で新しい条約が締結されるまでこの条約は有効だった[3]。新条約が1985年に締結された際、イタリア政府による聖職者への給料支払いと学校におけるカトリック教育の強制は廃止されている[2]

脚注[編集]

  1. a b c d e 『ローマ教皇事典』三交社、2000年。335頁
  2. a b c d e 『ローマ教皇事典』三交社、2000年。336頁
  3. この時にイタリア政府と実際の交渉を担当したのは国務長官アゴフティーノ・カサローリ枢機卿である。

参考文献[編集]

  • マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。

外部リンク[編集]