ブリスベン

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ブリスベンとは、オーストラリアクイーンズランド州にある都市およびその都市圏。


概要[編集]

オーストラリアを代表する都市のひとつであり、人口はおよそ200万人である。

市内には、ブリスベン川をはじめとした豊かな水運と自然豊かな緑あふれる街に町が造成されている。夏は日本と同程度の暑さ、冬は日本ほど寒くならないため、過ごしやすい。市内には、クイーンズランド大学クイーンズランド工科大学といった世界でも名だたる大学が市内に存在しており、日本からの留学先として人気が高い。

本項では、ブリスベン都市圏についてを一括して紹介する。なお、ブリスベン都市圏とは、以下の行政地区から構成されている。

なお、隣接するゴールドコーストなどを合わせると、人口は約300万人となり、シドニー、メルボルンに次ぐ国内第3位の大都市となっている。日本に例えると、福岡よりやや大きいぐらいの都市である。

歴史[編集]

先史時代[編集]

現在のブリスベンにあたる地域は、かつてアボリジニの部族であるユガラ族、ターバル族、クアンダムオカ族の3部族が居住していた。ブリスベンに人が居住するようになった時期は諸説あるが、古くは今からおよそ22,000年前に都市圏東部にあるノース・ストラドブローク島には居住していたものとされている。当時は先述したブリスベン川とその支流によって食料が豊富に存在し、漁港があったとされている。この漁港で採れた海産物をアボリジニは主な食料としていた。

18・19世紀[編集]

このような豊富な資源に欧米はただ指をくわえてみているわけでもなく、1770年にはイギリスの航海士がブリスベン周辺部に存在する島々の間の港湾を航行した。この時の航海士の代表がトーマス・ブリスベンという人物であり、ブリスベンという都市名は彼の名前からとられている。

19世紀に入り、オーストラリアの各地が次々とイギリスの植民地化されていくにつれて、ブリスベンはシドニーにいた囚人の流刑先として選ばれるようになる。これは港湾が多数存在し、市内にブリスベン川があったことによって船舶の来航が容易であったことと、シドニーから1000km以上離れており、簡単には戻ってこれないようにする必要があったためとされる。1823年以降、こうした囚人たちが次々とブリスベンに送り込まれ、彼らによって開拓が進んだことで町の規模が拡大した。1824年には囚人のための施設が建設されたが、この施設の環境は劣悪であり、餓死や脱走を試みるものも少なくなかった。

このような施設が放置されていることにイギリス政府は問題視した。加えてシドニーから離れすぎていたことにより、物資の輸送に年々手間がかかった。そのため、ブリスベンを囚人だけでなく、多くの市民を受け入れるように方針を転換する。1828年から牧畜が徐々に行われるようになり、1850年ごろにはヨーロッパからの移住者が続々と入植したことでシドニーとはことなる文化圏を形成するようになった。1859年にはクイーンズランド州が発足し、正式にニューサウストウエスト州から独立した。

20世紀[編集]

20世紀にはいると、急激な人口増加に伴って、市域が相次いで拡大していく。この時期では、ロシア帝国の存亡が大きな世界情勢の問題となっており、1910年代にはロシアからの移民が相次いでブリスベンに移住した。1925年には周辺にあった20以上の地方自治体行政区を併合した。この時に併合されたのが、サウスブリスベンウィナムクーパルーエノゲラトゥーンブルなどの地域であり、これらは多くが現代のブリスベンの地域の経済を支える重要な地域になっている。

1930年代後半になり、第二次世界大戦が勃発すると、イギリスの植民地であったオーストラリアももれなく参戦することになる。特にブリスベンは太平洋南西地域の戦場に近かったため、軍の拠点が置かれることになった。また、このころになると軍人に対する優遇措置が取られるようになり、住居の引き渡し、土地収用などが行われた。さらに、大学では軍人向けの校舎や宿舎も複数建設されるなど、軍事面の要塞としての都市の趣が強まった。しかし、旧来から住んでいた住民はこれを快く思っていなかった。軍人の相次ぐ優遇措置はついに我慢の限界に達し、1942年にはブリスベン住民と米軍との間で暴動が発生。暴動の終息には1日以上かかり、両軍合わせて死者1名、負傷者数百名にもなる事態となった。

戦後[編集]

終戦後、ブリスベンは大きな問題に直面した。それは、戦争によって傷がついた施設や設備を補修するために多額の支出が必要になった。加えて、多くの物資が戦争に拠出されたために、深刻な物資不足に陥った。また下水道電気といったライフラインの復旧もままならない状態であった。この状態を脱却するために、まずは電気・下水道の大規模な整備に着手。これらは資金・物資不足の中でも優先的に整備されていたが、人口増加はそれらを上回るペースで進んだ。これらの開発がひと段落したのは、終戦から15年もたった1960年にまで持ち込んだ。

1960年代以降のブリスベンでは以下のことを重点的に取り組むようになった。

  1. 下水道施設の拡充
  2. 税収の増加
  3. 鉄道・路面電車の縮小
  4. 高速道路の建設

この4つのうち、下水道と税収に関しては順調に計画が進んでいたが、鉄道廃止と高速道路建設には当初の計画通りには進まなかった。これらはセットでの計画が前提であったが、高速道路が10本の計画のところ、1本しか建設されなかった。これによって、鉄道の縮小計画は思うように進まず、むしろいったん廃止された区間が復活するといった珍事も起こった。

1970年代[編集]

先述したとおり、インフラ面での改善は終戦後に進んだものの、ソフト面での改善は遅々として進まなかった。というもの、当時のオーストラリアは独立したとはいえまだイギリスの影響が根強く残っており、とりわけ社会主義に対しての風当たりが非常に強かった。1960年代から1970年代にかけて、社会主義勢力がたびたび当局との衝突を起こしており、治安は安定していなかった。1977年には州全体での反政府運動が起こる。また、同時期には街頭抗議活動の禁止や州警察の汚職といった問題も重なり、市民からの信頼は大きく低下した。これらによって、当時の首相の辞任や政権の交代が行われた。

1980年代以降[編集]

1988年万国博覧会が開かれるのに合わせて、ブリスベン都市圏では大きく近代化を果たした。インフラ面では、とりわけ中心部西側に所在するサウスバンクやカルチャーセンター付近の再開発が重点的に行われ、シティの新たな経済網が築かれた。また、排気ガス規制の法律が制定されたことも手伝って、鉄道の電化や再開業が行われるようになり、クインズランド都市圏では日本でいうシティ電車と同様の高頻度、低編成での運行がなされるようになり、利便性が大きく向上した。

とわいえ、鉄道網はそこまで大きく広がらず、公共交通機関はもっぱらバスに頼る時代が続いた。増え続ける人口や自家用車の増加によって、バスの定時性運行には大きな課題が生ずることになった。そこで、街の中心部にバスウェイと呼ばれるバス専用道路を設けて、自家用車と路線バスの導線を分離することになった。これにより、路線バスの速達性が大きく向上し、利用者が増加することになった。

将来[編集]

ブリスベンは2032年オリンピックが開催されることが決定している。それに向けて、大きな変化を遂げようとしている。特に、クロスリバー鉄道計画が大きく進んでいる。これは、アルビオン駅からエキシビションを経由してダットン公園駅までを地下区間で結ぶ計画路線であり、完成すれば今まで鉄道が集中していたセントラル駅ローマ・ストリート駅周辺の列車本数の増加につながるほか、ブリスベンCBD南部に新駅が建設されることにもなっており、市内中心部の回遊性向上に大きく貢献する。このように、人口増加とオリンピックにあわせて日々進化を遂げている。

教育[編集]

クイーンズランド大学クイーンズランド工科大学をはじめとして世界でも名だたる教育機関がブリスベン周辺に立地している。

観光[編集]

市内中心部には博物館が多く立地しているほか、周辺にはゴールドコーストサンシャインコーストといった観光都市が多く立地している。

交通網[編集]

空路[編集]

市内北東部にブリスベン空港があり、カンタス航空ジェットスター航空を中心に世界の主要な都市との直行便が運航されている。日本からは成田空港関西国際空港から毎日1便が運航されている。

鉄道[編集]

市内中心部のローマ・ストリート駅を中心に放射網に鉄道が伸びている。大半の路線では平日は15分に1本、土休日は30分に1本程度の運行間隔で運転されている。

詳細は「シティトレイン (クイーンズランド)」を参照

バス[編集]

ブリスベンの主要な交通機関を担っているのが路線バスである。中心部では先述した通りバスウェイと呼ばれるバス専用道路があり、大半の路線バスはこのバスウェイを走行する。主にカルチャーセンターやクイーンストリートから市内各所への路線バスが存在する。郊外では、大規模なショッピングセンターにバスターミナルとなり、ショッピングセンター同士を結ぶバスも多く存在している。鉄道と同様に平日は本数が多いものの、土休日は本数が減少する。これは、オーストラリアの賃金制度が大きく関係しており、休日出勤の手当てが給与の2倍となっていることから、少ない乗務員で回したいという思惑があると思われる。

詳細は「ブリスベンの路線バス」を参照

[編集]

市内北東部にブリスベン港があり、そこからの定期船が数多く発着する。しかし、ブリスベン港周辺はバスも近くを走っていないため、車以外でのアクセスは不便である。

観光[編集]

ブリスベン市中心部
西部エリア
東部エリア
北部エリア
南部エリア

関連項目[編集]

外部リンク[編集]