フレディ・マーキュリー

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1979年のステージから。

フレディ・マーキュリーFreddie Mercury1946年9月5日 - 1991年11月24日)は、イギリスミュージシャン。ロックバンド、クイーンのヴォーカル、シンガーソングライター。独特の作曲センスと4オクターヴもの声域から、「世界最高のロックヴォーカリスト」の一人に挙げられる。またゲイ文化を吸収したパフォーマンスも特徴。1991年、AIDSの合併症であるニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎)により45歳で死去した。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1946年、インド系移民の子として当時イギリス領だったタンザニアのザンジバルに、裕福なパールシー(インドのゾロアスター教徒)の子として生まれる。本名はファルーク・バルサラ(Farrokh Bulsara)。その後一家そろってインドに移住し、寄宿学校に学んだ(ここで同性愛に目覚めたことを仄めかす歌詞を彼自身書いている)。そこでの不自由無いながらモッサリした生活に飽きた彼だったが、かのジミ・ヘンドリックスに影響を受け、五歳の頃からピアノを習っていたということもあり音楽への道に目覚めた。青年時代彼は英国に渡り美術大学に入学、グラフィック・デザインを学ぶ。

クイーン[編集]

学生時代「スマイル」というバンドのメンバーであったロジャー・テイラーと出会い、古着屋を経営するなど同居を始める。スマイルのボーカリスト、ティム・スタッフェルがシングル売上不振を理由に脱退したため、新しいボーカリストとして70年フレディが加入した。その後バンド名を「スマイル」改め「クイーン」としたロジャー、ブライアン・メイ、フレディの三人だったが、なかなか良いベーシストが見つからず困っていた所ロジャーが拾ってきたジョン・ディーコンを加入させ1971年に現在の顔ぶれとなった。当初英国マスコミから嫌われていたクイーンだったが、彼の作曲した「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒットから世界的ロックバンドへの道が見え始めるのだった。詳しくは親記事クイーン (バンド)に記述する。

ソロ活動[編集]

クイーンの活動がひと段落した1985年にソロ活動を始めたフレディは、日本での知名度が高い「ボーン・トゥー・ラブ・ユー」の原曲も収録されているアルバム「Mr.バッド・ガイ」を発売する。ラブソングが多いこのアルバムだが、本人曰く自由に書けたアルバムとのことであり、「愛はただでさえ難しいからラブソングまで難しくする必要はないんだよ」との発言もこのアルバムをうまく語っていると言えよう。またツアー活動停止宣言後の1988年には彼の敬愛するスペインのオペラ歌手モンセラ・カバリェとのデュエットアルバム「バルセロナ」を発表し話題を呼んだ。バルセロナオリンピック開会式ではカバリェとフレディが参加する予定であったが、フレディの死によって実現せず、三大テノールの一人ホセ・カレーラスが代役を務めた。

闘病と死[編集]

1986年のマジックツアーを最後にクイーンはライヴ活動を行えなかったが、これはフレディの病状の悪化にあった。1979年ごろから一気に性生活が乱れ始めたフレディは当時治療法が確立されていなかったAIDSに感染してしまったのである。その後も体調の良い時を見計らってレコーディングを続け闘病を続けたが、すっかり表舞台に登場しなくなった彼がAIDSに感染しているのではないかという憶測が広まっていった。

1991年6月、クイーンとの仕事を終えた後、マーキュリーはケンジントンの自宅に退いた。死期が近づくにつれ、マーキュリーの視力は衰え始めた。彼の容体の悪化は急速に進み、ベッドから出られなくなった[1]。マーキュリーは、薬物治療を受けることを拒絶し、鎮痛剤を継続的に使用して、死期を延ばさないことを決意した[1]。1991年11月22日、いよいよ病気を隠しきれなくなったマーキュリーは声明書について議論するため、マネージャーであるジム・ビーチを彼の自宅へ呼んだ。翌23日、マーキュリーは国際的な声明を発表し[2]自らがAIDS感染者であることを告白した。

ここ2週間に及ぶ、報道での大きな推測のとおり、私は陽性のHIVにかかっており、エイズであることを公表したい。私は、まわりの人のプライバシーを守るため、このことを現在まで秘密にしておくのが適当と考えました。しかし今、真実を、私のことを知りたいと望む世界中の友達、ファン、そしてこの恐ろしい病気と闘っている世界の人々のため、公表するときが来ました。私のプライバシーはとても特別で、インタビューに応じないことでも有名でした。この方針を継続することをお許し下さい。

しかし翌日未明にロンドンの自宅で恋人たちに看取られながら合併症のニューシモスチス肺炎によって世を去った。享年45歳。彼の闘病記については、恋人であるジム・ハットン氏の記した『フレディ・マーキュリーと私』に詳しい。フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬され散骨された。その場所は明らかにされていないが、一説によれば、彼の自宅の庭に埋められているともされている。

評価[編集]

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第18位[3]

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第47位[4]

音楽性[編集]

ピアノを5歳から習っており、ショパンなどのクラシック音楽の愛好家であったため彼の作曲した曲のコード進行はピアノを中心にしたものが多い。予測不可能な転調も多く、ワルツで始まった曲がいつのまにかロックになっている「ミリオネア・ワルツ」や、アカペラで始まりバラード→オペラ→ハードロック→バラードと目まぐるしい展開を見せる「ボヘミアン・ラプソディ」、曲中で同じフレーズが二度と繰り返されない「マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン」などの前期クイーンを象徴するプログレッシヴかつ華麗な音作りは彼によるものが多い。同時にこの過装飾とも取れる曲調こそ、好き嫌いが分かれやすく同時に熱狂的なファンを生む要因となっている。[5]

彼の作曲の大きな特徴は、ロカビリープログレッシブ・ロックヘヴィメタルゴスペルディスコを含む、広いジャンルで作曲していることである。1986年のインタビューでは、「私は再び同じ事をするのを嫌っている。音楽、映画、演劇において、今何が起こっているのかを確かめ、それら全てを取り入れることが好きなんだ」と説明している。多くのシンガーソングライターと比較しても、マーキュリーはいろいろな音楽を組み合わせて作曲する傾向があった。例えば、「ボヘミアン・ラプソディ」は、その構成が周期的で、多くの和音を含んでいる[6][7]。彼はさらに、多数のキーチェンジを行い、いろいろな音楽を組み合わせた曲を、クイーンIIで6曲書いている。「愛という名の欲望」でも、いくつかの和音が使われている。マーキュリーが非常に複雑なハーモニーをたくさん作曲したという事実にかかわらず、彼はかろうじて音楽を読むことができると主張している[8]。彼の曲のほとんどはピアノで作曲され、様々な調を使っている[6]

歌手としても、ハード・ロック調の楽曲から、オペラのような楽曲などさまざまな曲調を歌い上げること、正確な音程、幅広い声域(4オクターヴとされている)、ライヴでのパフォーマンスなどから、世界最高のヴォーカリストの一人と評される。スタジオでのCD録音の美しい歌唱に加え、ライヴでのフェイクを交えた歌唱は、CDで聞くことができないライブの良さを観客に届け、ライブバンドとしても絶大な品質を誇った。中期に入り、ボーカルレッスンによって、声帯に負担をかけにくくしつつもパワフルな歌唱を確固たるものにした。コンサートのオープニングで、歌唱以外での観客への呼びかけをすることにより、その日の喉の調子を推し量っている様子も見受けられ、比較的前半に演奏されることが多かった「愛にすべてを」のイントロでは、ピアノのアドリブを交えつつ、どの音域までスムーズに出せるかどうかといった試みもおこなっていたようである。

動き[編集]

ステージ上で絶え間なく演じられる鞭のようなしなやかな動きもファンを魅了する要因の一つであり、マイクスタンドを持って歌う姿は彼の象徴であった。全身タイツや半裸姿でのパフォーマンスも注目を集め、かの戦場カメラマン渡辺陽一氏も「あの、フレディー・マーキュリーの、鞭のような動き……」に魅了されたとインタビューで語っている。ゲイ文化を吸収し、非常にアクの強い風貌ながらもそれを意識させないさわやかな動きを見せるのが彼の特色といえよう。

1976年後半まではメンバーの衣装に統一性が見られたものの、1976年エディンバラ公演で突然フレディが全身タイツ姿となり、その後はほかのメンバーもつられたのか自由な衣装を着はじめた。その後は全身タイツのデザインを次々に変え、1978年後半からはレザーに裸サスペンダーとなり、80年には髭が生え次第にシンプルな衣装となっていった。

腕上げ (パフォーマンス)」も参照

嗜好[編集]

私生活では美しいものをこよなく愛する気さくな人物であったとされ、自宅の庭を日本庭園に仕立て池に鯉を泳がすなど日本文化にも大変関心を寄せていた。お忍び来日もあり、新宿二丁目には彼行きつけのバー『九州男』があるなど親日家であった。戸籍上の家族はつくらなかったものの、男性と女性両方の恋人[9]を持ち、猫も多く飼っていたという。[10]アートカレッジに通っていたためデザインも得意で、クイーンのロゴをデザインしたり、個人的に絵を描くのも趣味であった。また辛辣で知られる英国マスコミが嫌いとあって、インタビューの応対にも記者とは一線を置いて話しているような様子からパフォーマー「フレディ・マーキュリー」と私生活の自分をしっかり区別していたことが伺える。

他のミュージシャンへの影響[編集]

  • マイケルが、クイーンのファンだったことは有名。何度かクイーンのライブに足を運び、1981年にはフレディとのデュエット曲を発表している。他にも、マイケルの名曲、ビリー・ジーンは、クイーンの名曲、地獄へ道づれからヒントをもらった。
  • 彼女がクイーンの大ファンであったことは有名。 名前の「ガガ」はクイーンの名曲、Radio GaGaからとったと言われている。
  • 初来日以来、交流があった。
  • 「歌手の中であたしがほんとに尊敬っていうか憧れるのはこの人だけ」とまで言い切るほどの、熱烈なフレディファンである。また、バンドとしてのクイーンも最も気に入っているバンドの一つとしている。ライブでもフレディのソロ曲「リヴィング・オン・マイ・オウン」をカバーしたことがある。

名曲選[編集]

YouTube 動画リンク

  • Keep Passing The Open Windows - ピアノとベースの絡みと初期クイーンを思わせるコーラスが印象的な隠れ名曲。
  • Good Old Fashioned Lover Boy - フレディの趣味が遺憾なく発揮されたファンに人気のあるバラード。
  • Ogre Battle - ファンタジーな世界観をハードな曲調にまとめた作品。
  • Death On Two Legs - おどろどろしい曲調に歌詞も全てある人間への罵倒に徹した内容で訴訟まで起こされた問題作。
  • All God's Peaple - 宗教的な詞と神々しい曲調がクイーンの真骨頂を感じさせる作品。クレジットはクイーンだが、作曲の経緯からフレディとマイク・モランの作品とされている。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 Mary Austin Shares Her Memories – March, 17th 2000 OK! Magazine. Retrieved 26 August 2011
  2. Bret 1996, p. 179.
  3. Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Freddie Mercury”. 2013年5月26日確認。
  4. Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers2007年4月). 2013年5月21日確認。
  5. また彼が両性愛者であることなども美意識に影響をもたらしていることが想像できる。
  6. 6.0 6.1 Queen 1992.
  7. Aledort 2003.
  8. Coleman 1981.
  9. 『フレディ・マーキュリーと私』を書いたフレディお抱えの庭師ジム・ハットン氏、ブライアンの紹介で交際を始めた女性メアリー・オースティン氏が有名である。
  10. アルバム『イニュエンドウ』には愛猫デライラちゃんに捧げた『デライラ』という曲もある。

関連項目[編集]