フォークランド紛争

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Floccinaucinihilipilification Falklands!
無意味なフォークランド
──英国雑誌パンチ

フォークランド紛争(フォークランドふんそう)とは、イギリスアルゼンチンが南大西洋にあるフォークランド諸島を巡って争った紛争。イギリスの勝利で終わった。

概要[編集]

アルゼンチン側がイギリス側に無断で英領サウス・ジョージア島に民間人を上陸させたサウスジョージア侵攻 ()の後に、アルゼンチン軍がイギリス領フォークランド諸島に侵攻し、紛争 ()に発展した。当時のアルゼンチンの大統領レオポルド・ガルチェリ ()が侵攻命令を出したと言われている。国際連合にて和平案の議論もされたがアルゼンチン側は応じず、当時のイギリスの首相マーガレット・サッチャー ()は武力行使を決断した。

フォークランド(マルビナス)諸島は1833年以降はイギリス領であったが、アルゼンチンも領有権を主張して1975年から領有に関する論争が続いていた。この島は面積およそ1万2000平方キロ、人口およそ1800名程度の島でしかなかったが、石油を埋蔵し、南極大陸への足掛かりにもなっていたため、イギリスもアルゼンチンも重要視していたのである。

1982年4月2日、アルゼンチンはフォークランド諸島の軍事占領を強行する。これに対して同島のイギリスの総督であったレックス・ハントは降伏し、4月3日にフォークランド諸島からおよそ1500キロ東方の南ジョージア島にアルゼンチンの国旗が立てられる事態となった。イギリスの外相・フランシス・ピムアメリカ国務長官アレクサンダー・ヘイグらアメリカ首脳との会談を行なって調停を試みるが、交渉は暗礁に乗り上げ、イギリスの首相・マーガレット・サッチャーはアルゼンチンの侵略に対する自衛権の行使を名目にして武力行使を決断。4月25日午後6時、イギリスの機動艦隊の上陸部隊が南ジョージア島を急襲して同島を制圧するに至る。4月30日にはイギリスとアルゼンチンの調停を務めていたアメリカがイギリスの支持を表明した。

5月20日国連の調停が失敗したのを機にイギリスはフォークランド島に上陸する。これに対してアルゼンチン側も厳戒態勢に入っていたのだが、動員されたイギリス軍は8000人に対してアルゼンチン軍の守備隊は7000人と力の差は歴然としており、イギリス軍はこの上陸作戦でフリゲート艦を一隻撃沈されたが、同島攻略の橋頭保を手に入れるに至り、ポートスタンリーにまで迫るに至る。もともと、イギリスとアルゼンチンでは軍事力の差は歴然としていたため、アルゼンチンは外相のコスタ・メンデスを通じて交渉による紛争解決を目指そうとした。しかし国連の調停工作の打ち切り、イギリスの強硬な姿勢、アメリカが米州相互援助条約を破ってイギリスに味方している以上、最早アルゼンチンに勝機は無きに等しく、6月14日にフォークランドのアルゼンチン軍は武器を捨ててイギリス軍に降伏した。これにより勝敗は決し、7月12日にアルゼンチンは戦闘停止に同意する。

戦後、この勝利によりサッチャーの人気は急上昇する。逆にアルゼンチン軍事評議会は1984年2月に大統領のガルチェリを敗戦責任を理由に逮捕するに至った。

特徴[編集]

関連項目[編集]