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サヴィトリ・デヴィ

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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サヴィトリ・デヴィ(Savitri Devi、1905年9月30日 - 1982年10月22日)は、ナチズムの思想家、活動家。本名はマキシミアニ・ポルタズ(Maximiani Portas)。

経歴[編集]

フランスリヨンイギリス人の母とギリシャイタリア人の父の間に生まれた[1]リヨン大学で哲学と化学の修士号、哲学の博士号を取得した[2]。1928年にフランス国籍を放棄し、ギリシャ国籍を取得した。1929年にイギリス委任統治領パレスチナ滞在中にナチズムの信奉者となった[2]。1935年にイギリス植民地下のインドに旅行し、最終的にコルカタに居住した[2]。コルカタのヒンドゥー教伝道所で働き、ナチズムとヒンドゥー教を融合させた話をして宣教を行った[1]。当時の伝道所はヒンドゥー・ナショナリズム運動の活動拠点だった[1]。1935年からヴィトリ・デヴィのペンネームを使い始めた[2]。1939年にベンガル人バラモンで親枢軸派の出版者、アシット・クリシュナ・ムケルジ(1898-1977)と結婚した[2]第二次世界大戦中に夫婦はイギリスの情報を日本に報告するスパイ活動を行っていたとされる[1][2]

戦後にヨーロッパに戻った[1]。1948年に連合軍占領下のドイツに入国し、親ナチスのビラを配布した[1]。1949年にイギリス占領当局によって逮捕、投獄されたが[2]、獄中で元ナチスの囚人と知り合うことができた[1]。1958年の著書『稲妻と太陽(The Lightning and the Sun)』でヒトラーはヒンドゥー教の神ヴィシュヌの化身であると主張した[1][2]。「サヴィトリ・デヴィ・アーカイブ」運営者のR・G・フォーラーによると、同書の刊行により、第二世界大戦後に最も独創的で影響力のあるナチズムの思想家の1人となった[2]。1962年の国家社会主義者世界連合(WUNS)の結成に参加した。

晩年はインドで暮らした[1]。1982年にイギリスのエセックス州シブル・ヘディンガム[2]の友人の家で亡くなった[1]。遺灰はアメリカ・ナチ党の指導者、ジョージ・リンカーン・ロックウェルの遺灰の隣に埋葬された[1]

小説や戯曲も執筆した[2]。主著とみなされる『稲妻と太陽』以外の著書にヒンドゥー・ナショナリズムのマニフェスト『ヒンドゥー教徒への警告(A Warning to the Hindus)』(1939年)、神智学協会から出版された『神の子:エジプト王アクエンアテンの生涯と哲学(A Son of God: The Life and Philosophy of Akhnaton, King of Egypt)』(1946年)、同書を薔薇十字団が再刊した『太陽の子:エジプト王アクエンアテンの生涯と哲学(Son of the Sun: The Life and Philosophy of Akhnaton, King of Egypt)』(1956年)、占領下ドイツでの体験とナチズムについての見解をまとめた『炉の中の黄金(Gold in the Furnace)』(1952年)、菜食主義動物福祉ディープ・エコロジーについての見解をまとめた『人類への弾劾(Impeachment of Man)』(1959年)[2]、彼女自身と同じ愛家のナチス支持者を主人公とした半自伝的な小説『長いひげと二本足の女神、あるいは「最も不愉快なナチ」の真実の物語と……6匹の猫(Long-Whiskers and the Two-Legged Goddess, or the true story of a “most objectionable Nazi” and … half-a-dozen cats)』(1965年)などがある[1][2]

人物[編集]

ナチズム神秘主義オカルトペーガニズムなどを結びつけた秘教的ナチズムの代表的な提唱者。ナチズムとヒンドゥー教を融合させた汎神論を展開し、エコファシズム[3]オルタナ右翼[1]アメリカ・ナチ党の指導者マティアス・コールチリの外交官・詩人ミゲル・セラーノなどに影響を与えた。菜食主義動物の権利ディープ・エコロジーの提唱者でもあった[2]

デンマークネオナチポール・リース=クヌーセンはデヴィの秘教的な要素と距離をとりつつも、デヴィがナチズムと自然の法則の関係を明らかにし、ナチズムの宇宙的・宗教的価値観を説くことでその復興において重要な役割を果たしたと評価している[3]。晩年の太田龍はデヴィを「二十世紀の重要な女性思想家、恐らくは二十世紀最大の女性思想家」として評価するべきだと主張している[4]

フランスのネオナチ、フランソワーズ・ディオールクリスチャン・ディオールの姪)はデヴィの恋人だったと主張している[1]

出典[編集]

外部リンク[編集]