アンギアーリの戦い (絵画)
アンギアーリの戦い (あんぎあーりのたたかい、英:The Battle of Anghiari、伊:Battaglia di Anghiari)はイタリア・フィレンツェのフィレンツェ政庁舎大会議室にレオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた壁画(未完成)である。
現在はオリジナルが失われているため、「失われたレオナルド」と呼ばれている。 15世紀イタリアでのアンギアーリの戦いをテーマとした戦闘絵画である。
概要[編集]
レオナルド・ダ・ヴィンチはメディチ家が追放された後の1503年に共和国政府からの依頼で、ヴェッキオ宮殿(フィレンツェ共和国の政庁舎)の大会議室「500人大広間」に「アンギアーリの戦い」を制作し始めた。同時期に、反対側の壁でミケランジェロが「Battle of Cascina」を手がけていたという。ダ・ヴィンチは原寸大で「アンギアーリの戦い」の下絵を完成させ、ダ・ヴィンチは、1505年6月金曜日午前9時30分から絵の具を塗り始めた。ところがロウを混ぜた厚い下塗りのため絵の具が流れ落ち、制作を諦めたといわれる。
アンギアーリの戦いは未完成であるもののレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作であると見られている。レオナルドの同時代人の間でも彼の最高傑作と思われていた。ルネサンス初期芸術の最高到達点とされる。 絵画は特に敗者の姿に着目していることは頭部デッサン(ブタペスト国立美術館蔵)や破れた館、折れた剣、砂を被った死人が写実的にデッサンには描かれている(アカデミア美術館蔵、ベネツィア)。全体構想デッサンはアカデミア美術館蔵にあり、ラファエロの簡単なスケッチ(オクスフォード、アシュモール美術館蔵)からも推測できる[1]。
注文者[編集]
1503年8月24日付のフィレンツェ当局からサンタ・マリア・ノヴェルラ聖堂教皇の間に隣接する場所をレオナルド・ダ・ヴィンチに提供する旨の証書が残されている。1503年秋からレオナルド・ダ・ヴィンチが制作に従事したと考えられる。1504年5月4日付の共和国政府書記マキアヴェリの署名がある文書では、画稿完成は1505年2月末、報酬は1504年2月以降に毎月15フィオリーナと書かれている。期間までに完成しない時、画稿をレオナルドに返却し、支払った代金の返却を要求できると書かれている。 1506年10月9日にミラノに移っていたレオナルドに、フィレンツェ市政長官ソデリーニは、レオナルドはかなりの金高を受け取りながら、大きな仕事を少しばかり始めたに過ぎないと語った。
現存するか?[編集]
ヴェッキオ宮殿の大会議室に描かれていたが、1555年から1572年にかけてのジョルジョ・ヴァザーリによるフィレンツェ政庁舎改修で塗りつぶされたと考えられている。しかし壁面の描かれた場所は不明である。ダ・ヴィンチの壁画の上に描かれたとされるヴァザーリの「The Battle of Marciano in the Chiana Valley」は現存している。壁画の1つは、レオナルドの未完の作品に上書きしなければならなかったが、彼の崇拝者であったヴァザーリは手を付けられなかったという話が残されている。そのためヴァザーリの絵画の裏に現在も現存しているのではないか、と多くの研究者は推定している。実際にジョルジョ・ヴァザーリの壁画「マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い」の壁画の裏にもう1つの壁があることが発見されている[2]。
ヴァザーリの解説[編集]
ヴァザーリは原画を見ているので、説明が具体的である[3]。 ミラノのフィリッポ公の隊長ニッコロ・ピッチーニの物語が描かれ、一軍の騎馬兵が軍旗を奪い合う姿が描かれており、憤怒、憎悪、復讐心が人物と馬にまで現れている。レオナルドが兵士の姿を描くのに示した描写力は説明するまでもない。馬の形態や輪郭の熟達さ、洗練された美しさなどレオナルドに優れる画家はいない。彼はこの下絵を描くためにうまく細工した組立台を作り、狭めれば高くなり、広げれば低くなるようにした。壁面を油絵具で書こうとし、絵具を壁面に定着させるための混合物を調合したが、大会議室で描き続けているうちに絵具が流れ出してしまい、台無しになることがわかったので、すぐ描くのをやめた、と書いている[3]。
模写[編集]
1558年のロレンツォ・ツァッキア(Lorenzo Zacchia)による版画を元にして、1603年頃にルーベンスが描いた模写がルーブル美術館に現存する。しかし、この模写の「軍旗争奪」の場面は全体の一部とみられている。
模写はルーベンスのほかにもいくつかある。
- 「タヴォラ・ドーリア」と呼ばれるジェノバの名門貴族、ドーリア家に伝来した油彩による板絵。模写者は不詳。油彩とテンペラ/板 85.5×115.5cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
- 「アンギアーリの戦い」の模写、16世紀(1563年以前)、ヴェッキオ宮殿博物館( パラッツォ ヴェッキオ)
- 「アンギアーリの戦い」の模写、16世紀、フィレンツエ、ホーン美術館
- 「アンギアーリの戦い」の模写、旧ティンバル・コレクション蔵
- 「アンギアーリの戦い」1460年代前半、フィレンツェの画家、アイルランド国立美術館[4]
- 「アンギアーリの戦い」の模写、1603年頃、ルーベンス、ルーブル美術館
- 「アンギアーリの戦い」のエッチング、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ所蔵(1791年)[5]
「タヴォラ・ドーリア」は1920年代にイタリア・ナポリで盗まれ、違法にイタリア国外に持ち出されたものであった。1992年にミュンヘンから古物商を経て東京富士美術館が正規ルートで購入したが、第二次世界大戦開戦当時に不法に国外に持ち出されたとしてイタリア政府から返還を求められていた。イタリア文化財・文化活動省(文化省)と東京富士美術館とは長期的な協力協定を締結し、2012年にイタリアに寄贈された。その後、フィレンツェ国立修復研究所で科学的な調査を受けた[6]。調査の結果、「アンギアーリの戦い」の原画とほぼ同時期に書かれた可能性が高い事が判明している。レオナルド・ダ・ヴィンチ本人が関与した可能性を考える研究者もいる。
展示[編集]
2019年のルーブル特別展[7]ではルーベンスを含む模写された「アンギアーリの戦い」の絵画が展示されている。
また2015年には模写「タヴォラ・ドーリア(ドーリア家の板絵)」(ウフィツィ美術館蔵)が日本に来ている[8]。東京都八王子市の東京富士美術館(2015年5月26日から8月9日)[9]、宮城県美術館(2016年3月19日(土)- 5月29日(日))[10]、広島県立美術館(2017年9月5日(火)~2017年10月22日(日))、愛媛県美術館(2017/年11月2日(木)~ 12月24日(日)[11]、福岡市博物館(2018年4月6日(金)~6月3日(日))[12]などで展示された。
注[編集]
- ↑ 後藤茂樹(1977)『世界美術全集 5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』集英社
- ↑ ダ・ヴィンチの失われた壁画を発見?ナショナル・ジオグラフィック、2012年3月13日
- ↑ a b ジョルジョ・ヴァザーリ・(訳)田中英道・森雅彦(2011)『芸術家列伝 3 レオナルド・ダ・ヴィンチ』白水社
- ↑ The Battle of AnghiariNational Gallery of Ireland
- ↑ The Fight for the StandardRoyal Academy of Arts
- ↑ イタリア共和国と協力協定を締結、絵画を寄贈東京富士美術館
- ↑ 2019年10月24日から2020年2月24日までルーブル美術館で開催される「ダヴィンチ展」(ルーブル美術館)
- ↑ 「アンギアーリの戦い」展 未完の戦闘壁画、幻の競演産経新聞、2015年6月18日
- ↑ レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展東京富士美術館
- ↑ レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展宮城県美術館
- ↑ レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展愛媛新聞、2017年8月9日
- ↑ レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展福岡市博物館