レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452年4月15日 - 1519年5月2日)は16世紀に活躍したイタリアの画家、彫刻家、建築家、技術者(軍事、土木、治水)である。世界に大きな影響を与えた人物である。フルネームは、レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ。
概要[編集]
第1フィレンツェ時代[編集]
イタリア・フィレンツェ郊外のヴィンチ村郊外のタスカン・ハムレットで生まれた。公証人セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘カテリーナとの間の非嫡出子であった。14歳の時、有名な彫刻家・画家のアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に徒弟として入り、フィレンツェで12年間を過ごした。多忙なヴェロッキオの工房で、サンドロ・ボッティチェッリと面会した可能性が高い。工房では若き日のドメニコ・ギルランダイオ、ペルジーノ、ロレンツォ・ディ・クレディが弟子入りしていた。1466年から1482年を第1フィレンツェ時代という。
20歳のとき、レオナルドは師匠のヴェロッキオと「キリストの洗礼」や「受胎告知」(ウフィツィ美術館)を制作した。『キリストの洗礼』はヴェロッキオとレオナルドの合作とされており、レオナルドは左端の天使や背景を描いた。 23歳の頃、ヴェロッキオ工房にいる間に、 カーネーションを持つ聖母を制作した。1476年、24歳の時のフィレンツェの裁判に、レオナルドを含む3名の青年が同性愛の容疑を掛けられた記録がある。 26歳になったレオナルドはヴェロッキオから独立し、「ブノアの聖母」を制作した。1481年、フィレンツェ郊外サン・ドナート・ア・スコペート修道院から注文依頼を受けた『東方三博士の礼拝』は、その後、レオナルドが1482年にミラノ公国へと向かったため制作が中断され、未完成のまま終わった。ボッティチェリが『春』を発表して人気作家となったが、レオナルドは寡作であったことから、高い評価は得ていない。
第1ミラノ時代 [編集]
30歳ごろ(1482年ごろ)、失意のうちにフィレンツェを去り、ミラノに移動した。目的はスフォルツア公騎馬像製作のためと考えられる。ミラノは当時、ヴェネツィアと並ぶ強国であった。レオナルドは1482年から1499年までミラノ公国でミラノ君主ルドヴィコ・イル・モーロの宮廷で活動した。レオナルドは軍事技術者としての自薦状を提出してミラノ公に仕えることとなった。音楽家(リラ演奏家)や余興係、都市計画者、軍事技術者や水利工事監督者として活躍した。
このころの思索ノートが『レオナルド=ダ=ヴィンチの手記』として出版された。ミラノ公の先祖の騎馬像と聖フランチェスコ教会の『岩窟の聖母』の製作を行ったが、最も重要な作品は聖マリア=デッレ=グラツィエ聖堂の食堂壁画に『最後の晩餐』を描いたことである。1483年、ミラノのサンフランチェスク・グランデ聖堂の聖公会から礼拝堂裁断絵として『岩窟の聖母』の制作依頼を受けた。1487年、ミラノ大聖堂のディブリオの設計料が支払われた。1489年4月15日頃、人体の解剖学的研究を行った。1490年、10歳の少年ジャコモが来たので、サライと名付けられた。
1493年、生母のカテリーナがミラノに来た。同年11月30日、ドイツ皇帝マクシミリアとビアンカ・マリア・スフォルツアの結婚式でレオナルドの騎馬像が公開された。1494年、最後の晩餐の制作が開始された。1495年、生母カテリーナは死去する。レオナルドによる埋葬費のメモがある。1497年、最後の晩餐の完成が近づく。1498年、最後の晩餐が完成する。1498年4月25日付イザベラ・デステの手紙に、レオナルドの手になるチェチリア・ガッレラーニの肖像画を借りたいと申し込んでいる。1499年、イタリア戦争によりフランス王ルイ12世軍がミラノに侵攻し、レオナルドが製造中の大騎馬像のための青銅は急遽大砲用に転用され、出来上がっていた原寸大模型はフランス兵の試し撃ちの標的にされ破壊された。ミラノはフランス軍に占領されロドヴィコ・イル・モーロは逃亡したが、捕らえられて死を遂げた。レオナルドはミラノを去り、フィレンツェに向かった。
マントヴァ侯国時代[編集]
1499年から1500年の短い間である。1499年、以前から面識があり、芸術家への支援を行なっていたイザベラ・デステを頼る。イザベラ・デステは美しい肖像画「白テンを抱く貴婦人」を見て、自分の肖像画をレオナルドに描いてほしいと依頼した。レオナルドは、「いずれ描く」と約束し、デッサン1枚だけ残して旅立った。しかし彼はいつまでもイザベラ・デステの肖像画を描こうとせず、イザベラは何年もの間催促の手紙を送っている。
ヴェネツィア時代[編集]
1500年のレオナルドはヴェネツィアで、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われた。軍事顧問が高い地位を得ていたヴェネツィア共和国で、軍事顧問就任を希望していたが、アイデアに技術が追い付かず実現しないアイデアばかりであった。1年も経たずにヴェネツィア共和国を去った。
第2フィレンツェ時代[編集]
1500年〜1507年、48歳から55歳の時代である。レオナルドはフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。このころはミラノ公国での活躍が広まり、有名人になっていた。フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)大会議室の壁画『アンギアーリの戦い』の構想と制作に2年間携わった。1507年に叔父フランチェスコが「全ての財産をレオナルド・ダ・ヴィンチに譲る」と遺書を残して亡くなったため、異母弟妹12人と訴訟が起きた。レオナルドは嫌気が差したためか、再びミラノ公国へと赴く。
第2ミラノ時代[編集]
1508年から1513年の間、56歳から61歳である。解剖学に傾倒して死体を解剖し、デッサンを描いたのはこの頃である。1511年にパトロンのシャルル・ダンボワーズが亡くなると、ローマから仕事の依頼があった。山登りして風景画を描き、「レダと白鳥」を制作した。
フランス時代[編集]
レオナルドは64歳から67歳の間はフランスで過ごした。1516年秋頃、ローマからフランスに出発した。1517年5月、フランソワ1世の居城の一つであるフランス・アンボワーズ郊外のクルー城に到着した。1517年10月10日、枢機卿ルイジ・アラゴーナの一行がクルー城にレオナルドを訪ねた。記録では「70歳を超え、右手が不自由な老人から」「さるフィレンツエ貴婦人の肖像」「聖アンナ」「洗礼者ヨハネ」の3つの完璧な作品を見せられている。この頃、ロランタン付近の運河工事に携わった。
1518年5月3日、機械仕掛けの見世物の考案を行った。シャンポール宮についてブロワ居住のイタリア人建築家コルトーナに協力している。
1519年、4月23日、クルー城で遺書を書いた。弟子のメルツィを遺言執行人に指名し、作品や手記をゆだねた。数日後の1519年5月2日、67歳で死去する。8月12日、アンボワーズのサン・フロンランタン教会で葬儀が行われた。
人物[編集]
ヴァザーリはレオナルドの人物を以下のように書いている[1]。
- レオナルドは実に快く会話し、人の心をひきつけた。何も所有していない無一物というべきで、ほとんんど働かなかったが、常に従者を雇い、馬を飼っていた[1]。
- レオナルドはその知性的な技量により多くのことを始めたが、何も完成しなかった[1]
- レオナルドは偉大な精神を持ち、すべての行為について実に寛大であった。
- 晩年は年老いて何か月も病床に伏しており、死が近いことを悟った。友人や召使に支えられながら、聖なる秘蹟を受けたいと願ったとき、フランス王が急に現れた。レオナルドはベッドに座りながら容態を語り、納得出来る芸術作品を作らずいかに神に背き、人々を傷つけてきたかと語った。痙攣が来た時、王は彼の体を支え、レオナルドの苦痛を軽くした。王の腕の中で息を引き取った。75歳であった[1][2]。
ルネサンス絵画の特徴[編集]
陰影表現や遠近法による写実性の獲得、表情や動作による豊かな感情表現、ブルネレスキの開発した一点透視による遠近法、ヤン・ファン・エイクによる油彩技法の確立などにより、平面的な前時代に比べ高い写実性を得た。初期ルネサンス(1400年から1490年頃)ではフィレンツェが絵画の中心となっていたが、盛期ルネサンス(1490年頃から1527年頃)にはローマが絵画の中心地になり、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが活躍した時代である、
アントニオ・デル・ポッライオーロ(Antonio del Pollaiolo)は、レオナルドの師のヴェロッキオのライバルであるが、ポッライオーロはレオナルドに解剖を指導した可能性が指摘されている。人物のダイナミックな動き、張り詰めた筋肉に対するポッライオーロの解剖学的な正確さは、解剖学の研究のための死体解剖からの知見による。
弟子[編集]
レオナルドには多くの弟子がいた。
- ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオがいる。レオナルド・ダ・ビンチのもっとも才能ある弟子の1人といわれる。作品に「聖セバスティアヌスの姿をした若者像」(1900年代) 、『カシオ祭壇画』 (1500,ルーブル美術館) ,『聖母子像』 (ロンドン,ナショナル・ギャラリー)がある。
- フランチェスコ・メルツィはレオナルドに最後まで付き従った弟子の一人である。1506年、レオナルドの養子となった。レオナルドは彼に自身の研究ノートの手稿を遺産として残した。教育されており、立ち居振る舞いにも気品があふれ、優しく、美しく、また献身的な性格と言われる。
- ジャン・ジャコモ・カプロッティ(サライーノ)は1490年から1518年の間、レオナルドの弟子として有名な人物である。レオナルドは彼に自身の工房の切り盛りをまかせていた。彼には遺産として最後まで手放さなかった3点の絵画「モナ・リザ」、「聖アンナと聖母子」、「洗礼者ヨハネ」を残した。
- ベルナルディーノ・ルイーニの作品はかつてレオナルドの作ではないかといわれていた。作品に『聖家族と幼児ヨハネ』(マドリード プラド美術館蔵)、『貴婦人の肖像』(ワシントン ナショナルギャラリー)がある。
- チェーザレ・ダ・セストはミラノでのレオナルドの弟子のひとりである。長い間バルダッサーレ・ペルッツィと共に仕事をしていたためレオナルドとラファエッロの2人の巨匠のスタイルを受け継いでいる。
- アンドレア・ソラリオはレオナルドの重要な追随者。作品に『死せるキリスト』 (ルーヴル美術館蔵)、『緑色のクッションの聖母』(ルーヴル美術館蔵)。
作品[編集]
- 受胎告知 - ウフィツィ美術館
- カーネーションを持つ聖母 - アルテ・ビナコテーク
- ブノアの聖母 - エルミタージュ美術館
- ジネヴラ・ベンチの肖像 - ワシントンナショナル・ギャラリー
- 聖ヒエロニムス - ヴァチカン絵画館
- 岩窟の聖母 - ルーブル美術館
- 岩窟の聖母 - ロンドン、ナショナル・ギャラリー
- リッタの聖母 - エルミタージュ美術館
- 白貂を抱く貴婦人 - チャルトリスキ美術館
- 若い音楽家の肖像 - ミラノ、アンブロージアナ美術館
- ラ・ベル・フェロニエール - - ルーブル美術館
- 最後の晩餐 (ダ・ヴィンチ) - サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ聖堂(1495〜1498)
- 聖アンナと聖母子 - - ルーヴル美術館
- モナ・リザ(ラ・ジョコンダ) - ルーブル美術館
- 洗礼者ヨハネ (絵画) - ルーヴル美術館
未完成作品・素描[編集]
- 荒野の聖ヒエロニムス - 未完、
- 東方三博士の礼拝 - 未完、ウフィツィ美術館
- アンギアーリの戦い (絵画) - 未完、ヴェッキオ宮殿壁画。オリジナルは失われ、ルーベンスの模写あり。
- ほつれ髪の女 - パルマ国立美術館、1506-08年頃
- 少女の頭部/〈岩窟の聖母〉の天使のための習作 - トリノ王立図書館
- 自画像 - トリノ大王図書館
疑真作[編集]
- ミラノの貴婦人の肖像 - ルーヴル美術館
- 美しき姫君 - 個人蔵
- 糸車の聖母 - スコットランド国立美術館