青木繁吉
青木 繁吉(あおき しげきち、明治19年(1886年)12月21日 - 昭和46年(1971年)4月21日)は、日本の実業家。太陽石油の創業者。
生涯[編集]
高知県高岡郡高岡村(現在の土佐市)出身[1]。姉の嫁ぎ先に丁稚奉公し、明治41年(1908年)から青木石油店を開業する[1]。当時は天秤棒を担いで灯油を売り歩いたという[1]。大正4年(1915年)に愛媛県八幡浜市に移っているが、これは高知より愛媛の経済力のほうが将来性が高いと見ての判断だという[1]。青木は石油製品の小売のほか、精製方法を独自で研究して各種の自家製品を作って販路を拡大し、大正9年(1920年)には原油輸送のため、木製のタンカーを建造して石油元売りへの道を開始する[1]。そして大正14年(1925年)に青木運輸を設立し、海運業も開始した[1]。
昭和5年(1930年)に株式会社に自社を改組すると共に青木石油へと呼称を変更する[1]。そして太平洋戦争が開始された昭和16年(1941年)に戦時体制に移行するとして企業統合により太陽石油が誕生し、同石油の代表に就任した[1]。
戦後の昭和33年(1958年)に当時は困難と見られていたソ連の原油を輸入することに成功して業界の高い評価を得る[1]。これを機に太陽石油の名は全国に轟くようになり、昭和35年(1960年)には本社を東京都に移した[1]。
昭和46年(1971年)に84歳で亡くなり、養子の青木良作が跡を継いで2代目となる。孫の青木繁良が3代目を継いだ[1]。
人物像[編集]
青木は独立自尊を信条に先見性を発揮し、支配権への執着は強いが、金銭への執着はほとんどなかったという。外貨の割り当てが少ないと通産省にねじ込んだので訴訟魔などと呼ばれ、砂糖業界の暴れん坊であった和田製糖の和田久義と好一対をなし、輸入枠が不公平だと和田が役所で椅子を振り上げた一件とそっくりで、既成の枠にチャレンジするアウトサイダー創業者の双璧だったという[1]。