閻温
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閻 温(えん おん、? - 213年)は、中国の後漢末期の武将・政治家。字は伯倹(はくけん)[1]。曹操の家臣。
生涯[編集]
涼州天水郡西城の出身[1]。涼州の別駕に任命され、上邽県令の職務の代行をしていた[1]。馬超が曹操に敗れて涼州に逃亡してくると閻温も涼州に帰還し、馬超が挙兵して冀城を包囲すると閻温は城外に脱出して夏侯淵に援軍を要請しようとしたが途上で馬超に生け捕られた[1]。馬超は冀城を落とすためには城兵の士気を削ぐ必要があるとして閻温に援軍が来ないように叫ぶよう命令し、閻温も応じたがこれは見せかけで城の前に立つと「援軍が3日のうちに来る」と述べたため城兵の士気は高まった[1]。馬超は閻温をすぐには殺さず変心して自らの家臣になるように誘ったが、閻温は曹操への忠義を選んで曲げようとしなかったので結局殺された[1]。
『三国志演義』には登場しない。
日本の長篠の戦いにおける鳥居強右衛門そっくりの生涯とも言える人物である。