野田・二連木城攻め
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野田・二連木城攻め(のだ・にれんぎじょうぜめ)とは、元亀2年(1571年)4月に武田信玄軍と徳川家康軍との間で行なわれた合戦。武田信玄軍が勝利した。戦場は現在の愛知県新城市野田並びに同県豊橋市仁連木町[1][2]。
経歴[編集]
武田信玄は3月26日に2万3000の軍勢を率いて信濃伊那郡から奥三河に侵攻し、4月15日に足助(足助町)、田代、八桑、大沼、足摺、浅谷など徳川方の6つの城を落とした[2]。武田勝頼は菅沼氏や奥平氏ら山家三方衆を道案内にして徳川方の菅沼定盈の野田城を攻め、定盈は城外の砦に籠もって防戦したが敗れて退却する[2]。武田軍は定盈を追撃せず、吉田(豊橋市)に進軍する[2]。
吉田を守るのは徳川四天王の酒井忠次であるが、忠次は二連木城に籠もって武田軍と戦った。徳川家康は酒井を救援するため5000の兵を率いて来援するが、武田信玄は勝頼に8500、自身に1万3000を率いて山に陣取ったため、家康は利あらずとして吉田へ撤退した[2]。この際、二連木城に籠もっていた酒井が奮戦して武田四天王の山県昌景と戦い[2]、武田軍の追撃を断ち切っている。その後、武田軍は吉田城まで攻め寄せ包囲したが、すぐに包囲を解いて牛久保・長沢を経由して甲斐に帰国した[2]。