越前松岡藩

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松岡藩(まつおかはん)は、江戸時代前期から中期にかけて越前国に存在した福井藩支藩である。石高は5万石。藩主家は越前松平家。藩庁は松岡城。現在の福井県吉田郡永平寺町(旧松岡町)に存在した。

概要[編集]

正保2年(1645年)、福井藩の第3代藩主・松平忠昌結城秀康の子)が死去し、その跡を次男の松平光通が継いだ。このとき、光通は兄である松平昌勝に5万石を分与した。この昌勝に分与した5万石により、松岡藩が成立した。長男である昌勝が福井藩の家督を相続できなかったのは、庶子だったためである。

延宝2年(1674年)、光通が自殺した。この時、光通の遺書により福井藩主の座は弟で吉江藩を継承していた松平昌親が継承した。ところが、昌親には継嗣が無かったため、昌勝の嫡子である松平綱昌が昌親の養子に迎えられて延宝4年(1676年)に福井藩の第5代藩主となった。ところが、綱昌は貞享3年(1686年)に不行跡を理由として幕命により福井藩は一旦改易の指示が出た。しかし福井藩は結城秀康を藩祖とする名族であったため、昌親が吉品と改名して再び第6代藩主となることで存続されることとなった。しかし、吉品には嗣子が生まれ無かったため、元禄14年(1701年)に昌勝の6男・松平吉邦を養子として迎え、宝永7年(1710年)の吉品の隠居により、家督を継いで第7代藩主となっている。

松岡藩の初代藩主・昌勝は元禄6年(1693年)に死去し、その跡を3男の昌平が継いだ。しかし、享保6年(1721年)に本家を継いでいた実弟の吉邦が没すると、遺命により昌平が本家の家督を継いで第8代の福井藩主となり、第8代征夷大将軍徳川吉宗から1字を拝領して宗昌と名乗った。これにより松岡藩は廃藩となり、その所領は福井藩に併合された。

歴代藩主[編集]

松平(越前)家

5万石 親藩

  1. 昌勝
  2. 昌平