蘆名力丸

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蘆名 力丸(あしな りきまる、生没年不詳)は、戦国時代の人物。会津蘆名氏の一族。父は蘆名氏の第17代当主・蘆名盛興

生涯[編集]

蘆名盛興の庶子。母は片平氏範の娘で正室伊達晴宗の娘が生母ではなかったため、盛興は正室の妬み恨みを恐れて力丸を氏範の下で生ませ、さらに預けて養育させたという。盛興は正室との間に嫡子に恵まれないまま天正3年(1575年)に死去したため、祖父盛氏人質だった盛隆を自らの養子にして第18代当主に立てている。盛氏が力丸の存在を知らなかったのか、力丸の年齢と母親の身分の考慮(盛氏自身も庶兄の氏方と抗争している)して選ばなかったのかは不明である。

盛氏は天正8年(1580年)に死去し、盛隆は天正12年(1584年)に家臣暗殺され、その息子の隆氏も天正14年(1586年)に夭折したため、再度力丸にも当主になれる可能性が出てきた。片平氏範はこの際、力丸の後継を主張したとされるが、後継者には遠縁の佐竹義重の次男・義広が選ばれたため、氏範は不満を抱いて以後は病気と称して自らの所領に籠もりきりとなり、後に蘆名家から離反して伊達政宗に降った。

力丸は生母と共に民間に身を隠し、紀氏の家で育ったという。成長してから富山派の修験僧となって盛法院と号した。会津が蒲生氏郷の支配下に入ると会津稲荷神社の別当となり、館下という場所に宅地を与えられ、田村山村・南青木組慶山村・滝沢組牛ヶ墓村などを社領として与えられたという。