箕輪城攻め
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箕輪城攻め(みのわじょうぜめ)は、永禄6年(1563年)2月に武田信玄軍と上杉謙信軍との間で行なわれた合戦である。この戦いは永禄9年(1566年)に行なわれた説も浮上している。戦場は現在の群馬県群馬郡箕郷町[1]。
概要[編集]
勢力拡大を目指す武田信玄は上野に勢力を拡大するため、たびたび侵攻を行なっていた。上野は元々関東管領であった山内上杉憲政の領地であったが、憲政が北条氏康に追われてからはその重臣・長野業正が越後の上杉謙信の後援を得て対抗していた。この業正は信玄や氏康を震え上がらせるほどの名将で、上野の国衆を纏め上げて一歩も引かなかった。このため信玄は「業正ある限り上州は攻め取れぬ」とまで述べたほどである。その業正が永禄4年(1561年)に病死。跡を継いだのは息子の氏業であった。氏業も武勇に優れていたが若年のため上野国衆間で動揺が起こりだす。また信玄は業正の死を聞いて「これで上州は手に入れたも同然」と大変喜んで再び上野への侵攻を開始した。
永禄5年(1562年)11月9日、甲府を出陣した武田信玄は信濃・上野国境の余地峠(佐久保町)から南牧(南牧村)へ入り、松井田城や安中城(安中市)を落とした後、長野氏業が守る箕輪城を攻めた[1]。この時、箕輪城攻めで活躍したのが初陣である武田勝頼で、氏業の家臣・藤井豊後守が物見から戻るところを追撃し、城外の椿山で組み打ちを行なった、と『甲陽軍鑑』では伝えられている。箕輪城は落城し、氏業は自害した。これにより上杉謙信の勢力は西上野から大きく後退し、武田信玄の西上野支配が確立した。