秦泉寺掃部
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秦泉寺 掃部(じんぜんじ かもん、? - 永禄5年(1562年?))は、戦国時代の武将。本山氏の家臣、後に長宗我部氏の家臣[1]。
略歴[編集]
土佐国土佐郡秦泉寺城主で、当初は本山氏に仕えていた。弘治2年(1556年)に長宗我部国親に攻められて降伏し、以後は長宗我部氏の家臣となる。永禄3年(1560年)の国親の死後は元親に仕えた[1]。
秦泉寺の農民と土佐郡一宮の郷民との間に争いが起きた際、一宮の郷民が殺されたので一宮の神職がその犯人の引き渡しを要求するも、掃部は拒否する。これに激怒した元親は、家臣の中島親吉に命じて秦泉寺城を攻めさせ、掃部とその息子の豊後を討ち取らせた[1]。時期については朝倉合戦の後と言われるので、永禄5年(1562年)の可能性が高い[2]。