福澤捨次郎
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福澤 捨次郎(ふくざわ すてじろう、慶応元年9月21日(1865年11月9日) - 大正15年(1926年)11月3日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から大正時代にかけての男性で時事新報社社長。福澤諭吉の次男。姓は福沢とも書かれる。
略歴[編集]
福澤諭吉の次男として、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で生まれる。長兄の福澤一太郎と双子のように過ごし、発育が早かったという。学業の進度も早く、明治5年(1872年)春からアメリカ人より英語を習い始め、一太郎と共に東京大学予備門に通学する。しかしここで体調を崩したため、慶應義塾本科を一太郎より少し早い明治14年(1881年)12月に卒業した[1]。
明治16年(1883年)6月、一太郎と共にアメリカに留学し、オハイオ州オーバリン、ニューヨーク州ポーキプシーで学び、その後にボストンにあるマサチューセッツ工科大学([[MIT)に入学する。父の諭吉は電気学を勧めていたが、捨次郎は鉄道に興味を持っていたことから受け入れず、土木工学を専攻して大学を卒業し、明治21年(1888年)11月に帰国する。明治22年(1889年)6月に中上川彦次郎が社長をしていた山陽鉄道会社に入社し、明治24年(1891年)7月まで神戸、倉敷などで勤務する。その後、時事新報社に入社して、明治29年(1896年)1月から大正15年(1926年)6月まで社長職を務めあげた。慶應義塾においては、常任理事や評議員、さらに初代の体育会長を明治25年(1892年)から死去まで勤め上げるなど、要職を歴任する[1]。
私生活では兵庫県知事の林董(のちに外交官)の娘・菊と明治24年(1891年)2月に結婚して、2男2女の子女に恵まれている。大正15年(1926年)11月3日に死去[1]。61歳没。