神奈川県町田

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神奈川県町田(かながわけんまちだ)は、東京都域にある町田市を揶揄する言葉、および明治中期に現実に存在した地名である。

概要[編集]

町田市は東京都下の市であるが、地図を眺めると町田市と八王子市などの境界が都県境になれば、東京都本土部に南側の出っ張りがなくフラットになることから使われた言葉で神奈川県町田市と揶揄されている。

なお、町田市は多摩川以西の小田急小田原線エリアで唯一東京都にあったり、神奈川中央交通がバス交通の主力であることや商業的に政令指定都市であるはずの相模原市を後背地に抱えることから町田市の神奈川県化が強まる結果となっている。

現実に存在した時期[編集]

三多摩は1878年から1893年は神奈川県に属しており、このうち、町村制が施行された1889年4月1日から1893年3月31日の4年間、神奈川県に町田という地名が存在した。もっとも、当時の町田は市制はおろか町制も敷いておらず、実在した地名は神奈川県南多摩郡町田村である。なお、神奈川県離脱時、現在の町田市域には町田村の他、鶴川、忠生、堺、南の各村が存在した。

沿革[編集]

かつて、武蔵国相模国は多摩川・鶴見川流域と境川流域で分けられていた。現在の南町田グランベリーパーク、町田、多摩境、相原の各駅あたりは、相模原市と同じく相模国であった。一方、本町田、成瀬、鶴川あたりは武蔵国で、多摩市方面から街道が通じていたため多摩の南端部とされていた。

後に、本町田から境川東岸に移住する人が増え、原町田という町ができた。原町田が発展するにつれ、境川東岸一帯が武蔵国に編入されることとなり、これにより南多摩郡の「南側の出っ張り」が目立つ様になった。その後、原町田が町田市の中心繁華街として発展した。

さらに、江戸時代矢倉沢往還が脇街道となり、南北方向より東西方向の交通が発展したことにより、以降は「多摩市の南隣」色より「川崎市横浜市と相模原市の間」色が強くなり、より神奈川県色を強くしている。

最近では、このように異説を唱える人が出てきたのも現状である。

関連項目[編集]

大神奈川主義