石黒成綱
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石黒 成綱(いしぐろ なりつな、? - 天正9年7月6日(1581年8月5日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越中国礪波郡木舟城主。
略歴[編集]
越中国の国衆の1人で、父は石黒成親。成綱の石黒家は庶流であったが、天正年間には既に宗家を凌ぐ実力を持っていたという[1][2]。
最初は越後国の上杉謙信に従い、天正5年(1577年)12月の『上杉家中名字尽』に載せられているので、重臣の1人に列していた可能性がある。天正6年(1578年)3月13日に謙信が死去すると、3月24日にその養子である景勝から遺品の太刀を賜る。しかし間もなく御館の乱が起こると、景勝の下から離れて織田信長と通じている[2]。
天正8年(1580年)8月24日、及び9月14日に勝興寺領を違乱したことで、勝興寺から景勝に訴えられた。さらに一族の石黒又次郎(石黒宗家の当主の通称なので、宗家の当主と思われる)とも対立したりして、瑞泉寺から成綱が逆意を抱いていると景勝に訴えている書状も確認されている[2]。
しかし、成綱は信長と通じながらも、あくまで景勝に従う態度は崩さなかったので、逆に信長からもその曖昧な態度を疑われ出した。天正9年(1581年)、遂に信長は成綱に対して近江国佐和山城への出頭を命じ、これに応じた成綱が途上の近江長浜城で滞在していた際、信長の命令を受けた丹羽長秀によって一族もろとも誅殺されたという[2]。
成綱の死後、木舟城は織田軍に攻められて落城した。この際、木舟城には上杉景勝の重臣・吉江宗信がいたとされるため、成綱は織田方と上杉方の二股をかけながら、実は上杉に織田の情報を流していた可能性が高く、誅殺はやむを得なかったと見られている[2]。