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石田次男
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石田次男(いしだ つぎお、1925年(大正14年)2月24日 - 1992年(平成4年)2月4日)は、日本の政治家、宗教家。
経歴[編集]
創価学会に入会[編集]
- 1950年(昭和25年)1月に25歳の時に創価学会に入会した。創価学会の秘書室を経て、聖教新聞の編集長、1951年7月11日に創価学会の男子部第一部隊長(小岩支部、向島支部、城東支部の青年部担当などを務めた)。1953年1月2日創価学会の小岩支部長に就任して、特に、創価学会の教学(理論)面を担当する。
- 1953年(昭和28年)に創価学会の理事に就任する。
- 1957年(昭和32年)10月13日に創価学会の九州総支部が結成されて、初代の総支部長となる。
政界入り[編集]
- 1959年に参議院選挙に創価学会の推薦候補として立候補し、当選し参議院議員となる。災害対策特別委員長を歴任した。
- 1964年に創価学会により結成された「公明政治連盟」(のちの公明党)に参加する。公明党内では重要な役職にはつかなかった。
- 1965年に参議院選挙に立候補せず、政界引退した。
創価学会に批判的な立場となる[編集]
- 創価学会の活動への復帰後は、池田大作(会長)を中心とする創価学会の活動とは距離を置いた。後に池田大作(会長)らの仏法説を「内外一致の妙法」、「六師義・外道説」であると批判し、創価学会とは没交渉の状態になり、日蓮正宗(宗門)とも縁が薄くなった。
- 1980年に日蓮正宗の創価学会に反対する日蓮正宗の僧侶により「正信会」が結成された際には、その理論的支柱となった。1991年(平成3年)に日蓮正宗が創価学会と対立した後には、日蓮正宗側は石田次男の理論をしばしば援用した。
- 1992年2月4日に神奈川県横浜市の病院で67歳で死去した。この際、原稿用紙600枚に及ぶ「池田大作への諫言」と称する遺言書を残した。
人物[編集]
- 創価学会への入会後から1年にも満たない時期に、当時の戸田城聖(第2代会長)から創価学会の教学(理論)面の理解度の高さを買われて、創価学会の教学の理論書の『折伏教典』の第一章「生命論」の執筆を命じられた。
- 創価学会の戸田城聖(第2代会長)の死去後には、創価学会の第三代会長候補者として名前が挙がるほどの周囲の人望があった。
- 28歳で創価学会の理事に就任した。
- 戸田城聖(第2代会長)の死後、創価学会の会長の座を望めば狙える地位にいたが、週刊誌「週刊文春」は記事の中で「誠実だが病弱でありトップに立とうとする欲望が無かった。」と評している。
- 池田大作の著書の小説『人間革命』第12巻(150頁-154頁)の登場人物・石川幸男のモデルとなった。
- 晩年は、師匠の戸田城聖(第2代会長)が教えていない「内外一致の妙法」という己義を構えた。
親族[編集]
著書[編集]
- 『六師義は正理なのでしょうか』
- 『内外一致の妙法 - この有り得べからざるもの』 縁友会、1995年。
- 『現代諸学と仏法 (1-2) 』 日経企画出版局。