李嗣源

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

李 嗣源(り しげん、867年 - 933年)は、五代十国後唐の第2代皇帝(在位:926年 - 933年[1])。廟号は明宗(めいそう)[1]

生涯[編集]

李嗣源の一族は代北の遊牧民だったとされ、実父の名は錫霓(錫電)という[1]。李嗣源は人格が誠実だったのを太祖李克用に見込まれてその養子になった[1](李克用との年齢差は11歳である)。

太祖の死後、跡を継いだ義理の弟である荘宗の時代には契丹)との戦いや後唐建国の過程において功績を立てた[1]。しかし926年、荘宗に対して河北各地で反乱が起こると李嗣源は反乱の鎮圧を命じられて軍を率いたが、反乱を起こした鄴へ[2]赴く途上で率いた軍勢や反乱軍により逆に新たな皇帝として推戴され、李嗣源はそれに応じて荘宗を攻めて兵糧攻めに追い込み、荘宗が部下に殺されると正式に即位した[1]

明宗は荘宗の政治を改めるために積極的な内政改革を推進し、宦官や官僚の削減、侍衛親軍(皇帝の親衛隊)の創設、全国的な検地による課税の統一、財政機関としての三司使の創設を行なう[1]。しかし元々配下の軍に擁立されて即位したため軍に譲歩せざるを得ず、監軍(節度使の監視・監督する官)を廃止するなど皇帝権力の強化はできなかった[1]

930年には李嗣源との対立から西川節度使であった孟知祥が自立して後蜀を建国し、後唐は現在の四川省を失うことになる[3]。また明宗の治世が8年と短期だったことも李嗣源の崩御後に後唐が滅ぶ遠因になったが、この時代は豊作が続いて戦乱も少なく比較的平穏で、五代十国の間では珍しい安定期だった[1]

933年に崩御。享年67。跡を3男の閔帝が継いだ[1]

宗室[編集]

后妃[編集]

[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P171
  2. 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P170
  3. 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P190

参考文献[編集]