李従珂
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李 従珂(り じゅうか、885年 - 935年)は、五代十国の後唐の第4代皇帝(在位:934年 - 935年[1])。歴史的には末帝(まってい)あるいは廃帝(はいてい)と言われる[1]。
生涯[編集]
実父に関しては不明だが、本姓は王氏という[1]。第2代皇帝・明帝の養子となる[1]。933年に明帝が崩御して実子の閔帝が即位すると、閔帝から河東節度使に任命されたのを不満にして、翌年に反乱を起こした[2]。閔帝から鳳翔に討伐軍を派遣されると、李従珂は反乱軍を金で買収して寝返らせ、さらに洛陽に進撃し、洛陽の守備兵も金で買収して遂に洛陽を落として閔帝を殺害し、自らが皇帝に即位した[1]。
当時の後唐は明宗の娘婿である石敬瑭の実力が強くなっており、これを恐れた末帝は石敬瑭に対して圧力をかけ、さらに本拠地の晋陽からの移動を命じて成徳節度使から太平節度使とした[1]。追い込まれた石敬瑭は配下の劉知遠の勧めもあって晋陽で反乱を起こしたため、末帝は晋陽に討伐軍を送り石敬瑭を追い詰めた[1]。しかし石敬瑭の支援要請を受けた契丹(遼)の太宗の軍が南下したために後唐軍は壊滅する[1][3]。さらに遼軍と協力した石敬瑭軍が洛陽に迫ると、末帝は遂に玄武楼に登って火を放って焼身自殺した[3]。これにより後唐は滅亡した。享年51。
宗室[編集]
后妃[編集]
- 皇后劉氏