劉知遠

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劉 知遠(りゅう ちえん、895年 - 948年)は、五代十国後漢の初代皇帝(在位:947年 - 948年[1])。後漢の建国者のため、高祖(こうそ)と呼ばれる[1]。兄弟に劉崇劉信。同時代に南漢北漢など同名の国家が存在するため歴史用語で後漢と称されるが、国号は単にである。

生涯[編集]

即位前[編集]

沙陀突厥で太原出身で、父は劉琠といい、後唐(晋)の太祖の列校(指揮官)だった[1]。劉知遠は後唐の太祖の養子明宗に仕えたが、明宗の娘婿である石敬瑭の危機を救ったことから石敬瑭と親しくなり、石敬瑭が河東(太原)の節度使になった際にその部下になって牙門都校に任命された[1]。明宗の死後、その養子の末帝と石敬瑭が対立すると劉知遠は反乱を起こすことを勧め[2]北京馬歩軍都指揮使となった[1]後晋が建国されると禁軍の指揮を任され、さらに侍衛馬軍都指揮使権点検随駕六軍諸軍事、侍衛親軍馬歩都虞侯を経て馬歩軍都指揮使となり、保義、忠武(現在の河南省許昌県)、帰徳などの節度使を歴任し、さらに鄴(現在の河北省大名県)の留守を任され、北京留守河東節度使となった[1]。しかし劉知遠はこれらの官職を得てもまだ不満であったため、出帝太宗に攻められた際には援軍を出さずに傍観した[1]。このため出帝は遼の捕虜になって後晋は滅亡し、遼も中国を直接支配することが難しいと知ると開封から撤退したため、その後に空白地になった開封に入ってここを都と定め、皇帝として即位して後漢を建国した[1][3]

即位後[編集]

しかし在位1年で948年に崩御した。享年54。

新五代史・漢本紀』では劉知遠の死因は記録されていない[4]。一説によると、947年に寵愛していた長男の開封府尹・劉承訓が病死したことにより、劉知遠自身も過度の悲しみから病に倒れ、宰相の蘇逢吉ら重臣らに次男・隠帝の補佐を託し病死したとされる。なお、喪を発さなかった(死を隠した)として太傅杜重威が誅殺されている(『旧五代史』)。

こうして跡を次男の隠帝が継いだが、この在位の短さは致命的で部下の権力を抑えられず後漢が短命に終わる遠因となった。

宗室[編集]

后妃[編集]

  • 李皇后

子女[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P174
  2. 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P172
  3. 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P175
  4. 乾祐元年春正月乙卯、大赦、改元。己未、改名暠。丁丑、皇帝崩於万歳殿(『新五代史・漢本紀』)。

参考文献[編集]