白馬の禍
ナビゲーションに移動
検索に移動
白馬の禍(はくばのか)とは、中国の唐末期の天祐2年(905年)6月に行なわれた粛清事件である。この事件により、中国の貴族制が完全に崩壊したと見られている。
概要[編集]
黄巣の乱の後、群雄との戦いに勝ち抜いて唐王朝の実権を掌握していた朱全忠は、904年8月に当時の皇帝・昭宗を弑逆し、その9男でまだ13歳であった哀帝(昭宣帝)を擁立した。この少年が朱全忠の傀儡であったことは言うまでもなく、ただ朱全忠が自らの王朝を開くための禅譲の皇帝として擁立されただけだった。
905年2月の九曲池の変で哀帝の兄弟である李裕・李祤・李禊・李禋・李禕・李祕・李祺・李禛・李祥・李襜らが朱全忠により皆殺しにされ、哀帝は孤立させられる。さらに朱全忠は禅譲の邪魔になると考えていた唐の政治家や実力者の貴族らを参謀の李振[1]の進言を容れて抹殺することを決意した。
6月戊子の日、かつて唐の宰相であった裴枢をはじめ、独孤損・崔遠・王溥・趙崇ら30人余が白馬駅で朱全忠の部下によって殺害された。そしてその遺体は黄河に投げ込まれたという。
こうして唐王朝、ひいては皇帝は完全に機能を麻痺させると同時に、唐の時代に君臨した貴族政治は完全に終止符を打たれることになり、2年後の朱全忠の禅譲につながってゆくことになる。