九曲池の変

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九曲池の変(きゅうきょくちのへん)とは、中国末期の天祐2年(905年2月に行なわれた粛清事件である。

概要[編集]

黄巣の乱の後、群雄との戦いに勝ち抜いて唐王朝の実権を掌握していた朱全忠は、904年8月に当時の皇帝昭宗を弑逆し、その9男でまだ13歳であった哀帝(昭宣帝)を擁立した。この少年が朱全忠の傀儡であったことは言うまでもなく、ただ朱全忠が自らの王朝を開くための禅譲の皇帝として擁立されただけだった。

905年2月、朱全忠は哀帝の手足を奪うため、2月の社日[1]に部下の蒋玄暉に命じて洛陽苑内の九曲池に哀帝の兄弟である李裕李祤李禊李禋李禕李祕李祺李禛李祥李襜らを招待して宴会を催した。その宴会の最中に朱全忠配下の屈強な兵士らが数十人現れて、そこにいた兄弟全員を絞殺して遺体を九曲池に投げ込んだという。

朱全忠は禅譲の過程で彼ら皇族が邪魔になると考え、また唐復興の神輿にされることを恐れて殺したという。この4か月後には白馬の禍裴枢ら唐の貴族・要人らも皆殺しにされて朱全忠への禅譲の過程における邪魔者は完全に消え失せ、2年後の禅譲劇につながってゆくことになる。

脚注[編集]

  1. 社日とは土地の神を祀る日で、立春の後の5回目の戊の日を社日とする。この年の社日は戊戌に当たっており、この日は郊外で宴会を開く習慣があった。