王敦
王 敦(おう とん、266年 - 324年)は、西晋から東晋にかけての武将・政治家。軍事的才能に恵まれ、従弟の王導と共に元帝の東晋建国に貢献したが、元帝が王氏を冷遇するに及んで王敦の乱と称される反乱を起こす。一時は成功して全権を掌握したが簒奪までには至らず、再度挙兵したが病に倒れて没した。字は処仲(しょちゅう)。甥に王義之がいる。妻は武帝の娘・襄城公主(舞城公主)。
生涯[編集]
はじめ西晋の初代皇帝である武帝に仕える[1]。『世説新語』(豪爽篇)にはその際の逸話が伝わる。王敦は田舎者と若い頃は蔑まれ、言葉にも田舎訛りがあった。武帝が名士を呼び集めて技芸について話し合ったところ、出席者の多くは次々に発言したが王敦のみは発言できず大変不機嫌な顔をしていた。それを見た武帝が王敦にも発言を求めると、自分は太鼓の打ち方だけを知っていると言ったので武帝は太鼓を取り寄せて王敦に渡すと、王敦は腕まくりして立ち上がり、バチを振り上げて激しく打ち鳴らした。リズムは調子に乗って早く、気力も豪快に昂揚し、傍らに人無きが如き有様だった。一同こぞってしびスカッとした勇壮さに感嘆したという。この豪快な逸話が原因かどうかはわからないが、王敦は武帝の娘を妻に迎えている[2]。
武帝が崩御すると、西晋では八王の乱、次いで永嘉の乱が起こって西晋は大混乱状態になった。そんな混乱の西晋に見切りをつけた皇族の司馬睿(元帝)は東海王・司馬越の許しを得て江南に赴いた。この際に司馬睿を政治的に助けたのが王導、そして軍事的に助けたのが王敦である。王敦は手始めに司馬睿の命令に服従しない江州(現在の江西省)の刺史を討伐し、江州から荊州に至る地域の平定に貢献した[3]。317年に西晋が完全に滅亡すると、翌年には王導と協力して司馬睿を新たな皇帝に擁立し、東晋建国に貢献して「王(王敦・王導の王氏)は馬(司馬睿の司馬氏)と天下を共にする」とまで謳われた[3]。なお、これら一連の功績により王敦は侍中(皇帝の顧問)・大将軍・江州刺史兼荊州刺史に任命されて皇帝に匹敵するだけの地位と権力を得た[3]。
しかし元帝は次第に王一族の実力を恐れるようになり、側近の劉隗と刁協を重用して王導らを排除しようとした[3]。これに王敦は反発し、王導と諒解を取った上で[4]322年に駐屯地の武昌(現在の湖北省武漢市)で反乱を起こし、一気に首都の建康近くの石頭まで攻め込んで元帝を狼狽させ「私にとって代わりたいならそう言えばいい。我は琅邪に帰る」とまで言わしめるほどだったという[5]。王敦は元帝の側近を全て排除し、自らは丞相に就任して実権を掌握すると、本拠地の武昌にいったん引き返した[5]。
だが同年、元帝が崩御し、皇太子が明帝として即位すると情勢が一変する。この明帝は優秀な資質を持っており、王敦の専横に対して討伐令を出した。王敦も今度は簒奪を視野に入れて挙兵し、揚州牧を自称して対峙した。しかし既に王敦は重病を得ていて軍の指揮を執るには不可能で、東晋軍と戦う中での324年に病死した[5]。享年59[5]。これにより王敦の乱は鎮圧されたが、王導は東晋の中心人物として台頭してゆくことになる。
人物像[編集]
王敦は反乱を起こしているため後世の評価は余り良くない。ただし豪快な人物であり、また様々な事跡を持っていることから『世説新語』では逸話が数多く記録されている。
- 王敦は野心家、あるいは名を挙げることを夢見ていたのか、魏の曹操の作った詩である「老いたる名馬は馬屋で寝そべっていても、千里の道を走ることを夢み、勇者は晩年になっても激しい気概を抱き続けるものだ」をいつも酒を飲んだ後に歌っていたという(『世説新語』(豪爽篇))。
- 武帝の娘と結婚したての頃、トイレに行くとそこにあった棗を食べてしまった。これは当時はトイレの悪臭を防ぐために鼻につめるものだった。またあらい豆を手洗い用の水と飲み込んでしまった。これは当時の石鹸代わりである。侍女は後でそれを知って笑ったという(『世説新語』)。