王義之
王 義之(おう ぎし、307年 - 365年)は、中国の東晋の政治家・書家。叔父に王儀。従兄弟に王導・王敦がいる。官位から王右軍(おうゆうぐん)とも称される[1]。後世に書の名手、いわゆる『書聖』として名を知られた。妻は郗鑒の娘。子は7男1女(王玄之(長男)、王凝之(次男)、王渙之(三男)、王粛之(四男)、王徽之(五男)、王操之(六男)、王献之(七男))。
生涯[編集]
山東琅邪の出身。父が早くに死去したため、王導や王儀の庇護を受けて成長する[1]。成長すると貴族社会の寵児としてデビューし、王敦からも「我が一族の期待の星」と目をかけられていたという[2]。そのため、「骨っぽい」と称されて剛直な性格だった[2]。王義之は参軍・長史・刺史などを歴任した[1]。王導が東晋の元勲だったこともあり、中央に出仕して護軍将軍となる[1]。しかし中央政界の政争になじめず、また王導や郗鑒も死去したため、351年に右軍将軍、会稽内史として会稽郡治の山陰県に赴任し、土着の豪族や名士の謝安と交遊しながら中央とは無縁の生活を送った[1]。
4年間在任するが、その間の353年3月3日の上巳の日に名勝蘭亭に集まって曲水に杯を浮かべて宴を催し、この時の来会者が作った詩を集めて一巻とし、その巻首に王義之自ら筆を振るって書いたのが有名な『蘭亭序』である[1][3]。
355年、王義之は政界から完全に引退した[3]。理由としては同族ながら政敵であった王述に圧力をかけられたことと、前年に王義之と親しかった殷浩が桓温と対立して敗れて失脚したことなどが挙げられている[3]。以後、任地の会稽にそのまま住み着いて悠々自適な生活を楽しみ、興のむくままに筆を執り、子宝に恵まれた家庭の中で友人と語り合い、道教の一派である「天師道」の熱心な信者として会稽の山を彷徨して不老長生の薬草を採取するなどしたという[3]。ただし王義之が隠遁生活を楽しめたのは王氏が名門で富裕な大貴族であったためである[4]。365年に59歳で死去した[4]。
現在、王義之の真筆はひとつも残っていないとされるが、真筆に近いものとしては日本に伝わる「喪乱帖」と「孔侍中帖」がある[1]。
逸話[編集]
王義之が王導・郗鑒に認められていたことを物語る逸話が『世説新語』(雅量篇)に記録されている。
- 『郗鑒は王導との関係を深めるため、王一族の中から娘の結婚相手を選んでほしいと申し入れた。王導は勝手に選んで構わないと返答し、郗鑒は信頼する部下に王氏の御曹司の目利きをさせた。部下が帰って来て「王氏の御曹司は皆さんご立派ですが、婿探しに来たと聞くとどなたも格好をつけて気取ってしまわれました。ただ一人の坊ちゃんだけは東のベッドで腹ばいになり、まるで聞いていらっしゃらないようでした」と報告すると、「そいつが(娘の相手には)いい」と郗鑒は述べた。それが王義之だった』
末子の王献之も父に匹敵する書の名手であった[2]。また次男の王凝之の妻が有名な謝道蘊である[2]。